鎖骨骨折から練習に復帰した直後だから、大学2年の時だったと記憶している。生協の書籍コーナーをうろうろしていたら、突然名前を呼ばれた。
 「何を探している。本が好きか? じゃあこれを読め」。迫力のある野太い声の主から薦められたのは、川端康成の短編小説「伊豆の踊子」だった。


 「この本はいいぞ。読んだら感想文を書いて持ってこい」。カリスマ監督がポケットマネーで買ってくれた文庫本をありがたく頂戴し、一気に読んだ。
 日本人初のノーベル文学賞を受賞した作家が実体験を基に描いた、孤独に悩む青年と踊り子の恋物語は、代表作である「雪国」とはまた違う味わいがあった。


 今シーズン大学日本一になった立命大では、授業に出る際のドレスコードなどを学生が自主的に決めていたそうだ。1980年代後半に甲子園ボウル、ライスボウルを制した日大の主将は、1年間部員に日記を義務づけ自ら添削していた。
 一見競技力の向上には関係ないように思える日常の営みが、練習の効率を高めるのではないかと考えることがある。


 サッカーの日本代表で読書家として知られる長谷部誠選手は、著書「心を整える」で本から学ぶことはとても多いと語っている。インタビューでの彼のスマートな受け答えを見る度に、読書の効用を実感する。
 個々が心を整えて臨んだトレーニングからはさまざまなアイデアが生まれ、確実にチーム力向上につながっていく。


 「伊豆の踊子」の感想文は提出しなかった。監督の命令に背いたのは後にも先にもその一度だけで、奇跡的におとがめはなかった。
 あの時、書籍コーナーで探していたのは高尚な文学作品ではなく、若者向けの娯楽雑誌だったことを、御大は先刻お見通しだったに違いない。(編集長・宍戸博昭)

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