チームのスターターQBになりそうな逸材は、カナダのフラッグフットボール選手権で優勝し、フラッグ界では名の知れた選手だった。
 彼女はネイティブアメリカンなので、アメリカでさまざまな特権を与えられていた。外国人選手の中で彼女だけが、永住権も就労権も持っていた。


 初年度の我がチームの外国人選手は、ドイツから4人、オーストラリアからラグビー全豪代表選手、そしてカナディアンQBと私の7人だった。
 オーストラリアから参戦の選手は、「ラグビーのプロはない、私はアメリカでプロ選手になるために来た」と最初のあいさつで熱く語っていた。


 ドイツの4人組は、みんなガタイが良く、最初はラインとして期待されていたが、走り込みについていけず、いつも途中でギブアップしていた。
 練習が終わるころには、元気を取り戻して、「練習終わったらビール飲みに行こう!」と陽気に盛り上がる面々で、1カ月経ち自分たちが試合に出られそうにないと分かると、一人、また一人と帰国して、開幕には誰も残らなかった。


 私はというと、ずっと「エクスチェンジマシン」だったが、良かったのは英語が聞き取れるようになったことだ。
 なにしろプロリーグ創設年である。アメフトはスカウティングのスポーツと言われるが、その肝心のスカウティングのネタが全くないのだから、最初はプレーブックもなかった。
 コーチ陣も女子選手を教えるのは初めてだったので、選手の能力をある程度見てから、プレーを作ろうと考えていたのだと思う。


 プレーブックがあれば、プレー名も書かれているから、なんとか分かると思うのだが、それがない以上、コーチの言うことを聞き取らなくてはならない。
 最初は、「Right(右)」さえも聞き取れず。次のプレーで「Left」が出てきて、「おー、さっきのはライトって言っていたのか!」というレベルだった。


 「Rollout Right(右のロールアウトのパス)」と言われても、最初は、「ローロー」にしか聞こえなかった。でも、エクスチェンジマシンの私には全く関係なく、ひたすらボールを出しながら、同じプレーを何度も見て聞いて、やっとプレー名を聞きとり、覚えると言う日々だった。
 このエクスチェンジマシン時代がなく、すぐにスクリメージに参加できていたら、私は絶対残っていなかったと思う。


 そしてキャンプインから1カ月後、転換期がやってきた。

【写真】デイトナビーチ・バラクーダスの選手たち=2000年