私は、1995年に友達に誘われ、アメフトを始めた。30歳になり、何か新しいことでも始めたいなと誰もが思い始めるそんな時期に、私はたまたまアメフトに出会った。


 それまでアメフトに全く興味がなく、というより当時スポーツクラブのインストラクターだった私は、映画鑑賞や、芸術を見たり、なんて生活とは全くの無縁。さらにスポーツ観戦もしない、常に「I CAN DO IT!」な私だった。


 1995年の4月に、初めてアメフトの練習に参加、そして記念すべき初陣はその2カ月後の6月、ポジションはノーズガード。このときたまたま空いていた「79番」をその後20年間つけることになろうとは、誰が想像したであろう。


 それまでアメフトの試合を全く見たことがなかった私は、この時自分の初めて出場した試合が、初めて見たアメフトの試合でもあった。
 だからルールもへったくれもありゃしない。練習中は、ノーズガードだった私に、コーチは「Sさんへいけ」と言った。Sさんは当時の我がチームのクオーターバック。常に私は、Sさんかボールだけを見ていた。


 試合当日も「練習と同じに動けばいいから」と言われたが、ふとSさんが同じチームにいることを発見。びっくりして「私、誰に行けばいいんですか?」とコーチに質問するほどのド素人ぶりだった。


 こんな私でも、続けていくうちに、ルールもわかるようになり、キャプテンになって、コーチになって、オーナーになっていった。
 当時日本には女子のアメフトチームが二つしかなかったので、年に2回同じチームと試合をしていた。それこそ、「QBサックにいけ!」というより、「Aさんにいけ!」の世界だった。我がチームが何年も続けて連勝するようになって、物足りなさを感じ始めていた頃、またもや転機が訪れた。


 「選手は募集すれば集まるだろう。でもボランティアでチームマネジメントをやってくれる人はそうそういないから、そろそろ選手をやめて、チーム運営を本格的にやろうかな」。そう思い始めた2000年。とある深夜番組で、「アメリカに女子アメフトプロリーグ設立」の話題が、画像と一緒に取り上げられていた。
 深夜にもかかわらず、私の携帯電話は鳴りっぱなしだった。みんなが口をそろえて「テレビ見てる? ベティが行かなくて誰が行くの?」と興奮しながら、私を未知の世界へ飛び込ませようとした。


 それまで、アメリカに女子プロリーグがなかったのは、ちょっと意外な気がするが、1970年代に3年間、大々的にリーグ戦が行なわれていた。しかしその後は、できては消えのくり返し。野球でさえ同じ状況であり、現在唯一NBA傘下で行なわれている女子プロバスケットボールリーグだけが、安定はしているもの、決して黒字ではない。
 当時の私は、そんなことは全く知らず、徐々にアメリカ行きに心が傾き始めていた。

【写真】レディコングで活躍していた当時の鈴木弘子さん(下段左から3番目)