大成功だった東京五輪の熱気がまだ残る1964年12月9日。
 日本アメリカンフットボールの30周年を記念して結成された「全日本学生選抜」のメンバーを乗せた日航機は羽田空港を出発し、日付変更線を越えて深夜のハワイ・ホノルル空港に降り立った。


 関学大と日大が中心のメンバーの中に、当時関学大の3年生QB梅田一夫(75)も含まれていた。
 コーチ陣には米田満(関学大)、篠竹幹夫(日大)という、その後日本のアメリカンフットボール界を牽引する指導者が名を連ねていた。


 当時の日大のエースQB横溝裕利とともに、地元メディアが設定した記者会見に出席した梅田は、矢継ぎ早に飛んでくる質問に「アメリカでのフットボール人気の高さを実感した」という。


 篠竹コーチの指示で、翌日の昼間から練習が始まった。しかし、真冬の日本から常夏の島にやって来た選手たちは、あまりの暑さに参ってしまう。
 「日大の選手は、何も言わず黙々と練習していたが、僕が篠竹さんに直訴して夜間練習にしてもらった」。梅田は、ちょっぴり自慢げにそう語る。


 12月11日のハワイ大との第1戦は0―40で完敗。しかし、1週間後のハワイ大OBチーム「49ers」との第2戦は、28―10で劇的な逆転勝ちを収めた。
 横溝の控えとして出場した梅田にとっても、生涯忘れられない試合となる。


 神戸市で生まれた梅田は、関西学院中学部でタッチフットボールを始めた。
 当時大学院生で、後に関学大の黄金期を築く武田建コーチの指導を受け高等部、大学と一貫してQBとしてプレーすることになる。


 「武田先生は、僕が中学部3年の時にアメリカに留学。大学1年の時に帰国してヘッドコーチに就任した。悲劇はそれから始まり、来る日も来る日も怒られていた」。梅田は当時をこう振り返る。


 フットボールに熱中しすぎた梅田は、高等部で4年間を過ごし、大学時代は4度甲子園ボウルに出場した。
 先発出場した1年時の第17回大会は、日大に24―28で惜敗。2、3年時は日大に大敗し、4年時は立教大と22―22で引き分け両校優勝という結果だった。


 「日大は憧れであり、目標だった。ハワイ遠征では篠竹さんの深い人間性に触れた。ライバルと同じチームで戦った青春時代は、僕にとって宝物」
 ハワイで恋に落ちた現地の女性と結婚し永住、数年前に亡くなった親友・横溝が眠るワイキキを、当時のメンバーで定期的に訪れているという。


 大学卒業後は、安田生命(現明治安田生命)に就職。2年間母校のコーチをした後、神戸勤務時代に兵庫・仁川学院高、東京では成蹊大、東京外大コーチ、東大アドバイザーを務め指導者としての経験を積んだ。


 96年、会社の115周年記念事業の一環として「Y’s Red Lions」を創部、監督に就任した。
 チームは2005年に五洋建設と合併。現在はXリーグ「明治安田Penta Oceanパイレーツ」の監督を務めている。


 「体が小さくて長いパスを投げられなかったが、QBをやらせてもらった。甲子園ボウルで日大に勝てなかったのも、4年で引き分けたのも、社会で頑張ろうと思う原動力になった」


 梅田は現在、週末は東京・八王子にあるチームの練習施設に寝泊まりし、会社の運動部全体の調整役として厚い信頼を得ている。
 「若い人と接点を持つには、いろいろ勉強しないといけない」。自らを「後期高齢者のおじいちゃん」と言うが、そのバイタリティーには驚かされる。


 フットボールに寄り添い62年。
 小学生の指導など、地域に密着した長年の功績が認められた梅田は、日本社会人協会の推薦で、ボールゲーム9競技の日本最高峰リーグの競技力の向上と運営の活性化を目指す「日本トップリーグ連携機構」(JTL)から、近く表彰を受ける予定だ。(文中敬称略)

【写真】ハワイの新聞に掲載された梅田一夫さんの写真=写真提供・梅田一夫さん