京都・西京極陸上競技場で行われた関西学生リーグ伝統の「関京戦」の試合後、懐かしい人と再会した。


 内田良平さん。45歳になった彼は今、母校京大のチームドクター。選手の健康面を支えるスタッフの一人として活動している。
 「ギャングスターズの子たちの面倒を見られるのは幸せ。お世話になったチームへの恩返しですね」


 内田さんは、1999年にイタリアのシチリア島で開催された第1回ワールドカップ(W杯=現世界選手権)で優勝した日本代表のCBという経歴の持ち主である。
 当時はコソボ紛争が激化し、本場米国は選手らの安全確保が難しいという理由で、代表チームを派遣しなかった。
 日本も米国に同調し参加しない空気が支配的だったが、最終的に代表チームを送り込んだ。


 日本のアメリカンフットボール史上、初めて結成された本格的な「ジャパン」の一員となった内田さんは、守備の後方に位置するCBとして勝利に貢献した。


 7月。灼熱の太陽が照りつけるパレルモで開催された大舞台で、内田さんはアスリートとしての才能を存分に発揮した。タイブレークにもつれ込んだメキシコとの決勝でも、要所で非凡な動きを見せた。
 「W杯出場は得難い経験で、楽しかった」と振り返る。


 兵庫県西宮市で生まれた。中高は名門・大教大付属池田で過ごし、バスケットボールに打ち込んだ。
 京大へは現役で薬学部に合格。京大を受験した最大の理由は、「ギャングスターズでプレーするため」だという。


 1980年代後半、QB東海辰弥さんらスター選手を擁して日本一なった京大を見て「これは行くしかない」と心に決めた。


 「本当は航空工学や機械工学を勉強したかったので、入学手続きをしようか迷っていた。そうしたら、当時の水野(彌一)監督から『人生何が起きるか分からないので、とりあえず入学してみろ』と言われた」という。


 日本一を目指すチームの練習は、想像以上に厳しかったが「辞めようと思ったことは一度もない」そうだ。


 4年で京大を卒業。ここから、また新たな挑戦が始まる。1年間予備校で勉強し、名古屋大医学部を受験し合格。医師を目指すことになる。


 医学生として勉学に励む傍ら、Xリーグのアサヒ飲料でプレー。W杯の翌年の2000年度シーズンにはRB中村多聞さん、LB山田晋三さんらとともに、日本選手権(ライスボウル)で学生代表の法大を破って日本一になる。


 医師になったのは29歳。「最初は、尊敬できる先生がいた小児科医を志望していたが、スポーツ整形外科医になることにした」
 愛知県西尾市にある病院の勤務医としてスタートし、現在は阪大の関連病院である、大阪府堺市にある正風病院のスポーツ整形外科に所属している。


 「夢はスポーツ整形外科の分野で、世界に通用する医者になること。けがの予防や復帰の手助けをしたい。選手には幸せになってほしい。そうすれば、日本でフットボールがもっと普及すると思う」


 脳しんとうの問題など、アメリカンフットボールという競技を取り巻く環境は厳しさを増している。
 「アメリカから見たら、日本でもフットボールをやっているのって感じだろうけれど、医学の分野でアメリカに打って出たい。それも関西から発信したい」


 こうと決めたらとことん突き詰め、思いを実現してきた。既に同じ志を持つ医師とグループを形成し、その機をうかがっている。

【写真】母校京大のチームドクターとして活動する内田良平さん=9月22日・西京極陸上競技場