メンバーに恵まれたチームの監督は生き生きとしている。選手一人一人について語る口調は熱く、自信にあふれている。
春の東京都大会を制した佼成学園高の小林孝至監督(47)は、間もなく開幕する関東大会に向けて、確かな手応えを感じながら日々の指導に当たっている。
5月15日、東京・アミノバイタルフィールドで行われた都大会決勝。佼成学園高は強豪の駒場学園高に31―0で圧勝した。
佼成学園高は攻守に充実。駒場学園高もいいチームだが、その実力は大学生と高校生ほどの差があるように見えた。
主力として出場している今年の2年生には、富士通フラッグフットボールチームで全国制覇を経験した生徒と、佼成学園中で優勝経験がある選手が大勢いる。
アメリカンフットボール選手としての基本がしっかりしていて動きにそつがなく「超高校級」のチームと言っていいだろう。
「去年の秋は9月の段階で早々と負けてしまったので、都大会への準備がしっかりできた。今年はメンバーがそろったこともあるが、いい練習ができている」と小林は言う。
2年前の春の関学高とのスクリメージ練習で、選手が天狗になって失敗した反省を踏まえ、地に足をつけた指導を心掛けているという。
小林は中高を佼成学園で過ごし、大学は日大に進んだ。「体育の教員になりたかった。大学でフットボールを続けるか迷ったが、日大にいた高校の先輩に勧誘されて進学を決めた」という。
「練習時間が長いのは覚悟していたが、実際に日大に入ってみて体が付いていかずパンクしてしまった」。入学当時をこう振り返る小林だが、パスレシーブの才能を見込まれ春から1軍のRBに抜擢された。
当時の日大は3、4年の上級生と下級生の1軍選手、それに地方出身者が中野区にある合宿所で共同生活をしていた。もちろん、学生から「鬼」と恐れられた故篠竹幹夫監督も一緒だった。
1年生でも、1軍選手は合宿所での雑用は一切免除される。同期には、後に日本を代表するWRになる梶山龍誠がいて、地方出身者の一人として寝食を共にしていた。
しかし、チーム内にはヒエラルキーが露骨に存在し「上級生から(1軍ではない1年とは)話をするなと言われ、友だちができなかった」という。
1年時の1987年は京大の全盛期と重なり、日大は甲子園ボウルで敗れた。「打倒京大」は「フェニックス」の新たな目標になった。
器用な小林は2年時には既にチームの中心的な役割を果たしていた。88、89年はライバル関学大との死闘を制し、副将として臨んだ4年時の甲子園ボウルは、京大に雪辱した。
大学の年間最優秀選手に贈られる「チャック・ミルズ杯」を2度受賞した選手は過去に4人いるが、甲子園ボウルの「最優秀選手」に2度選ばれたのは、小林ただ一人である。
大学3年の89年の8月。夏合宿の休養日に、小林は母校を訪れていた。父・繁美(しげよし)さんが危篤という連絡があったのはその時だ。すぐ病院に駆けつけたが、繁美さんは55歳の若さで息を引き取った。
繁美さんは、小林が高校3年の時に胃がん手術を受けた。当時は余命半年と宣告されたそうだが、息子のプレーを励みに闘病生活を続けていたという。
小林は「父親が手術をしたとき、大学進学を諦めようと思った」。しかし、既に社会人になっていた姉の希巳枝さんに背中を押され、教員になる夢をかなえることと、フットボールを続ける決意をする。
「父が亡くなってから、僕の授業料を含め姉が家計を支えてくれた。一生頭が上がらない」。希巳枝さんの長男は今、佼成学園高の1年生TEとして小林の指導を受けている。
小林は、大学の恩師・篠竹監督の采配の素晴らしさは「選手交代のタイミングにある」と言う。学生のコンディションを的確に把握した選手起用は、とても参考になるそうだ。
「オヤジ(篠竹監督)には、弱気になると叱られた。なにくそと思って頑張ると、必ず褒めてくれた。言いっ放しではなかった。叱った後はそのままにしないで、フォローするやり方も学んだ」
チームのニックネーム「LOTUS」は、お釈迦様の台座の「蓮の葉」にちなんで付けられた。
小林によれば「蓮は根がつながっていて、必ず花が咲く。泥臭いところほどきれいに花が咲くという言い伝えがある」のだそうだ。
泥臭いとは、つらいことや悲しいことを意味する。それを乗り越えてこそ、栄冠は訪れる。ニックネームにはそんな思いが込められている。
創部以来の悲願である「日本一」を狙える陣容はそろった。「ボランティアで我々を支えてくれている人たちの力もあって、チームは強くなった。恩返しをするためにも、できる限りの努力をしたい」と、小林は表情を引き締める。
佼成学園高の関東大会の初戦は6月5日、アミノバイタルフィールドで神奈川県の名門・法政二高と対戦する。
【写真】今年のチームについて語る佼成学園高の小林監督