豊かな包容力と抜群の存在感。「人間力」という言葉があるならば、関学大アメリカンフットボール部の1976年度主将・伊藤文治郎(60)は、まさにその表現がぴったり当てはまる。
 大学4年時、関西学生リーグで初めて京大に敗れ、リーグ戦での連勝が145で止まり、引き継いだ父親の会社は倒産。若くして数々の修羅場をくぐり抜けてきた苦労人の言葉には、何とも言えない重みがある。


 1954年9月に神戸で生まれた伊藤は、中学部から関西学院で学んだ。中学時代の成績は常にトップ。生徒会長を務める優等生だった。高等部時代は野球部の主将。捕手で3番を打ち、3年時にはレベルの高い兵庫県で夏の大会のベスト8まで進んだ。
 体格を見込まれて当時の武田建監督から誘われたこともあったが、大学ではアメリカンフットボール部に入ると決めていたという。


 1年から大型TEとして頭角を現し、2年からDTとしてレギュラーに定着。3年まで二つのポジションを兼任していたが、1学年上の「四天王」と呼ばれたラインの4選手が卒業し、キャプテンになった4年時はOLとDLでフル出場した。
 「TEでボールを扱うのは面白かったが、それより当たることに魅力を感じていた」。伊藤は当時をこう振り返る。


 最終学年の京大との激闘は、今でも伊藤の人生の支えになっている。リーグ戦で京大に0―21のスコアで完敗。関学大が続けていた連勝記録が145でストップした。
 「キャプテン謝れ、土下座せい!」。スタンドからは容赦のない罵声が浴びせられたという。しかし、まだチャンスは残っていた。京大は関大に敗れ、1敗で並んだ両校は優勝をかけて1週間後のプレーオフで再戦することになった。


 『あの1週間の自分とチームの状況は、今でも鮮明に記憶している。1週間で技術面、体力面の向上はあり得ない。自らを、どんな精神状態に追い込むか、それだけだった。プレーオフでは、異常なほどの周囲の興奮、高まりとは逆に、冷静な自分がいた。OTとDT両方での出場だったが、全く疲労感はなく、不思議なくらいよく体が動きプレーが見えた。間違いなく何かにパワーを与えられ、自分ではない何かに後ろから押されているような感じであった。おそらく自分を含む4年生全員が『無』になっていたのだろう。そして下級生、コーチ、OB、父兄、全てのKGファイターズを取り巻く人たちからグラウンドの我々がパワーをもらったように思う』
 伊藤は後年、「ファイターズ」の部誌「Fight On」でこう述懐している。


 プレーオフの結果は13―0で関学大が勝利。1週間前に完封されたチームが、鮮やかなリベンジに成功した。それはまた、伊藤の「人間力」が発揮された試合でもあり、甲子園ボウルで明大を破って4連覇を果たした77年卒業組は「奇跡の学年」と呼ばれている。


 卒業後は「日本一の会社で働きたい、それも東京のど真ん中の丸の内で」と三菱商事に就職する。鉄鋼関係の部署での仕事は面白く、将来は海外駐在員も視野に入れていた。しかし、人生は大きく動き出す。
 1983年、時はバブルの時代。大阪の船場で父親が営んでいた輸入の繊維問屋の跡取りとして、6年勤めた商社を辞め実家に戻る。29歳の時である。


 「営業部長」の肩書で始まった新しい仕事は、しばらくは順調だった。だが、バブルが崩壊し業績は悪化。父親の側近として会社を切り盛りしていた古参の社員が、社長に心配をかけまいと長年粉飾決算をしていたのが結果的にあだになった。
 気がついたときには負債額は数十億円に上り、会社は倒産。伊藤は二代目社長として妻と1歳と3歳の子どもを抱え、社員と残った資産を商社に引き継ぐなど、倒産の手続きに奔走した。


 「自宅をはじめ、全てを失った。資産を金に換え、債権者に返済した。給料はなし。先のことは何とかなると思ったが、ストレスで十二指腸潰瘍になり胃に穴があいた」。伊藤は途方に暮れる。
 ジムに行くお金にも事欠いていた伊藤は、毎日気分転換のため河原を走る。「外を走ると、草のにおいがしたりして、不思議に気持ちが活性化して前向きになった」という。


 捨てる神あれば拾う神ありである。神戸の商業施設の近くを走っていたときだ。ファッションプラザを運営する大手建設会社の子会社の社長と知り合う。その人は関学大出身で、探していた営業のとりまとめ役を伊藤に依頼した。断る理由はなく、部長待遇で入社。伊藤は手腕を発揮し、商業施設の大改装に貢献する。


 伊藤の人生を語る上で、欠かせない人物と再会する。父親の会社が倒産したときから物心両面で支えてくれた、当時伊藤忠の輸入繊維事業部長だった岡藤正広現社長である。


 その恩人と、神戸大アメリカンフットボールOB細見研介・伊藤忠現ブランドマーケティング部門長の勧めで、伊藤忠が投資しているバッグなどの高級ブランド「ハンティングワールド」の日本での事業展開に加わることになる。
 伊藤は2000年に再び上京。営業本部長として業績を伸ばし、2004年に代表取締役社長に就任した。


 岡藤社長とは、伊藤の計らいで伊藤忠に勤務する「ファイターズ」の若手OBと定期的に食事会を開いている。
 伊藤は後輩に「岡藤さんは、忙しい合間を縫って君たちとの時間をつくってくださっている。だから、社長の話を将来の肥やしにすること。それから、社長の癒しの時間にすることをミッションとして与えている」という。


 縁あって、2003年から東大医学部アメリカンフットボール部のコーチをしている。フットボールへの恩返しの意味もあって引き受けた。


 「彼らとは毎年、目標と目的を確認する。楽しくフットボールをやろうということなら、私は手伝わない。あくまで(医科歯科リーグでの)優勝を目指す。けがを心配する親御さんにも、そこははっきり言うことにしている。彼らは純粋。目標を掲げたらまっすぐに進む。彼らを見ていると楽しくて、引き込まれる」


 「0―21で負けたチームが、1週間後に13―0で勝つ。私にとって、あの2試合は人生の全て。あれがなければ今はない」
 どんな時も大事な家族を必死で守ってきた。どん底の頃に1歳だった長男はこの春、第一志望の大学に入学する。

【写真】インタビューに答える伊藤文治郎さん=東京都千代田区