その時、フィールドには強い追い風が吹いていた。1988年11月6日、相模原野球場で行われたオンワード対三和銀行。オンワードの新人キッカー川上祐司は、センターからホールダーへと渡るボールを緊張することもなく待っていた。
 渾身の力を込めて蹴ったボールは、追い風にも乗り58ヤード先のクロスバーを越えた。それまでの日本記録を4ヤード上回る、フィールドゴール(FG)の日本新記録が誕生した。


 ハーフラインから、敵陣に2ヤード入った48ヤード地点からのトライ。エンドゾーンの10ヤードを加え、58ヤードのFGとはそういう距離である。
 「当たりはよかった。プレッシャーもなく、蹴った瞬間『入った』と思った」。川上は当時をこう振り返る。


 京都で生まれた川上は、小学校からサッカーを始めた。その頃からキック力は飛び抜けていて、「近所の子どもたちとのキックベースボールでは、ほとんどがホームランだった」という。
 小学校6年の3学期に大阪の箕面市に引っ越した。指導者に恵まれサッカーを続けるつもりだったが、当時はNFLが日本でにわかに注目を集め始めた時期でもあった。NFLのスター選手の写真が踊る下敷きや筆箱は、子供心を揺さぶった。
 「アメリカンフットボール部がある高校に行きたい」という思いは日に日に募り、公立の東淀川高に進学する。


 高校ではCBとキッカーを任され1、3年時は大阪で2位になった。抜群の飛距離のパントが、大阪大会決勝を見に来ていた日体大の藤野雅博監督の目に留まり、日体大に特待生として入学することになる。
 「体育の先生になりたかったので、日体大に入れたのは幸運だった。当時の日体大は、点差こそついていたとはいえ、日大と甲子園ボウル出場を争うチームだったことも決め手になった」


 大学では、1年時からキッカーとして常時出場。しかし、キッカーだけの出場に川上は満足できなかった。
 2年からはLBも兼任。「実はTEをやりたくて頑張ったつもりだったが、無名の公立高から入り、ほとんど芽が出ず諦めた」。左足首を痛めたこともあり、藤野監督からはキッカーに専念するように諭される。


 しかし、守備は面白かった。右サイドのDEを任された背景に、蹴り脚を痛めないようにという監督の配慮があったことを知ったのは、社会人になってからだった。
 結局、目標としていた甲子園ボウル出場はならなかった。ならば社会人でという思いで選んだのが、オンワードだった。背番号「58」はこの時から付けている。58ヤードのFGとは、何か因縁めく。


 「オンワードでもディフェンスでは期待されていなかった。たまたまポジションに空きがあり、LBでプレーした」
 だが、当時のオンワードの練習はお世辞にも日本一を目指す雰囲気ではなかったという。そのチームが変わったのは89年だ。


 日本一を経験した日大のQB山田喜弘が入部。「彼が来たことで、自分の学生時代は何だったのかと思うほどの衝撃を受けた」という川上は、「喜弘がオフェンスを何とかしてくれるので、あとはディフェンスが頑張ればと思った」。勝てるチーム作りが、おぼろげながら見えてきたという。
 それから2年。オンワードはライスボウルで関学大に勝ち念願の日本一になる。


 目標を達成した川上だったが、チーム内の確執もあり徐々に情熱を失っていく。はっきりものを言う性格で、コーチ陣としばしばぶつかった。「オンワードは好きだったが、チームの中で浮いている自分がいた」


 オンワードを辞め富士通に移ったが、ここでも「勝てないチームにジレンマを感じて、引退した」という。大学時代の恩師・藤野監督から日体大でのコーチを打診され、受諾する。
 コーチで戻った母校は、ひどい状態だったという。「部室にはたばこの吸い殻がちらかり、規律も乱れていた。当時あった合宿所の掃除から始め、きれいにしないと防具を着けて練習させなかった」という。チームは立ち直り、コーチ就任3年目の2001年には、関東学生リーグでブロック優勝した。


 富士通では、会社の業務で広報を担当する。「東大出身の社員が大半を占める部署で、僕の主な役割は記者さんとの夜のお付き合いだった」という。この仕事が、あの時のように「追い風」となって、川上の人生を変えることになる。


 マネジメントに興味を抱いた川上は、本格的に勉強しようと決意する。2度目の挑戦で筑波大大学院に合格。2007年3月に修士課程スポーツシステム・健康マネジメント専攻を終了し、教員を目指すことになる。
 会社に在籍しながら勉強させてくれた富士通には「今でも感謝している」という。大学院で学んだノウハウで、富士通運動部のマネジメントを手がけるうちに、教員の道に進みたいという思いがますます強くなる。


 「もともとコーチ学を勉強したくて大学院に行った」という川上は現在、東京の八王子にある帝京大経済学部経営学科の准教授として「スポンサーシップ概論」などの授業を担当している。「大学教員としてはレベル的にまだまだ。学生が居眠りしてしまうのも、僕の授業が面白くないから」


 7月で50歳になる。「人生のハーフタイム。教員になったのは、人生の後半に向けていいタイミングだった」と話す川上は、「企業が欲しがる人間を育てたい。そして、いつかまたフットボールに関わりたい」。教員としての夢を語る顔は、充実感に満ちていた。

【写真】帝京大で教鞭を執る川上さん=東京・八王子の帝京大八王子キャンパス