関学大を卒業し、ウエイクフォレスト大にコーチ留学していた伊角富三に、OBから連絡があった。「今の状況はかなり厳しい。帰ってこられるか?」。1976年のシーズン中のことだ。


 伊角は、日本のアメリカンフットボール界に多大な貢献をしたチャック・ミルズ氏が監督を務める、ノースカロライナ州ウインストンセーラムにあるウエイクフォレスト大で1974年9月から指導者としての勉強をしていた。その伊角が、母校のピンチに急遽呼び戻されたのだ。


 関学大は76年の秋、リーグ戦で京大に0―21で敗れ、リーグでの連勝記録が145で止まった。だが、京大も1敗していたためプレーオフになり、関学はその試合を13―0で制し、甲子園でも4連覇した。
 当時の武田建監督とともに「ファイターズ」を救った一人の伊角は、「当初は76年のシーズンまでアメリカにいるつもりだったが、お世話になったチャックさんがすぐに帰れと言ってくれた」と振り返る。


 その名が、学生の年間最優秀選手に贈られる「チャック・ミルズ杯」に刻まれているミルズ氏の功績について少し触れておく。
 ミルズ氏は、伊角が大学3年だった71年に、ユタ州立大を率いて来日。73年にはウエイクフォレスト大の監督として再来日し、本場のプレーを披露するだけでなく、競技の普及にも貢献した。


 ユタ州立大との試合に日本代表として出場した伊角のポジションは、攻撃のGと守備のLB。「クリニックを受けて、日本とのあまりの違いに驚いた」という伊角は、「ぜひアメリカでフットボールを見たいという、強い思いに駆られた」と振り返る。
 ユタ州立大でミルズ氏に師事していた元関学大の名QB広瀬慶次郎と入れ替わるように、伊角は渡米した。アメリカでの生活は順風満帆で、76年のシーズン途中で帰国することになるとは、想像もしていなかった。


 77年シーズン。関学大は、前年以上に苦しい戦いを強いられる。春は京大に0―35で完敗。「手も足も出ない状況で、秋はどないすんねん」。伊角は当時の心境をこう語る。
 しかし、6月に27歳になったばかりの青年監督の気持ちの切り替えは早かった。「京大とのパワーの差は歴然としていた。ならば、何とかパスに活路を見いだすしかないという思いで、あの年はQBとレシーバーには申し訳ないことをしたが、春と秋の間のオフを返上して毎日パスの練習をしていた」


 そして迎えた秋のシーズン。11月13日、両雄が全勝で優勝を懸けて対戦した。「涙の日生球場」と呼ばれ、今も語り継がれる名勝負は、関学大が得意のパスが1回も成功しなかったにもかかわらず29―21で制した。続く甲子園ボウルでは関東代表の日大に快勝し、史上初の5連覇を達成した。


 京大戦でみせたフェイクパントは、試合の流れを大きく変えた。2年生パンター浜中則昭は、センターからのボールを受ける前、いつもより大きく蹴り脚を振り上げてウオーミングアップ。だが、ボールは浜中の前のサーチライトの位置にいたエースRB越中啓至にダイレクトでスナップされ大きくゲイン。ファーストダウンを更新する。


 「あのプレーは、アメリカにいた時にUCLAが使ったのを見て、これはいつかどこかで使えると思っていた」。しかしそれ以降、伊角はこのトリックプレーを封印する。その理由は定かではない。


 甲子園ボウル5連覇を達成した関学大だが、その後は関東のライバル日大に4連敗。闘将・篠竹幹夫監督が率いる日大は、82年に初めて甲子園ボウルに出場した京大を破り、関学大に並ぶ5連覇を果たす。
 日大との死闘は、伊角のコーチ人生の中で大きなウエートを占めている。「あの頃の関学は、戦力的に苦しかった。日大との甲子園ボウルはアメリカのディビジョン1とディビジョン2の試合のように、力の差を見せつけられた。ただ、関西の対戦相手も力が落ちていたので、そういう点では運があったのかもしれない」


 自身がキャプテンだった1972年も、大変なシーズンを送っている。学生運動真っ盛りのこの時代。関学大もそのあおりを受け、選手の獲得が難しくなる。春の西日本大会では、初戦で桃山学院大に敗退。やっとの思いで出場した甲子園ボウルでは、初出場の法大に屈した。
 「1年から試合に出場していたが、最終学年の甲子園ボウルは勝てなかった。関学高等部時代に、タッチフットボールの全国大会決勝で法政二高に負けているので、法政には不思議な因縁を感じた」という。


 不遇だった選手時代の悔しさが、コーチとして情熱を燃やす原動力になった。「すぐに頭に血が上るので、つい言葉も荒くなる。使える時間はすべてフットボールに使ったが、ここ5年ぐらい、当時の学生には悪いことをしたという懺悔の気持ちがある」。過酷な練習を課した教え子への思いを語る伊角だが、その当時の様子を感謝を込めて懐かしそうに話すOBは少なくない。


 10月25日、京都・西京極陸上競技場。昨年3月に関西学生連盟の理事長に就任した伊角は伝統の「関京戦」のテレビ解説者を務めた。隣には、かつて死闘を繰り広げた京大の水野彌一前監督が座っていた。互いに年齢を重ね、和やかに語り合う二人に「呉越同舟」という言葉は不似合いな気がした。


 「涙の日生球場」から37年。64歳になった伊角は、こう話してくれた。
 「試合を見に来てくれる、学生の比率の低さに危機感を持っている。そういう状況の中で役を仰せつかった。一番面白いと思っているスポーツを、より多くの人に理解してもらうことを共通の目標として取り組めば、一人一人の誇りにつながる。今までフットボールに関われたことに感謝しながら、理事長職にあるうちはそれを目指す」―。

【写真】現在、関西学生連盟の理事長を務める伊角富三さん=西京極陸上競技場