ユーモアを交えた巧みな話術で、周囲を飽きさせない。一見大胆のようだが、細心の注意を決して怠らない。
 5月で創立50周年を迎えた、ビルのメインテナンス事業などを手がける「(株)ビケンテクノ」(東証2部上場)の代表取締役社長、梶山龍誠(45)は、そんなリーダーの資質を備えた魅力的な人物である。


 東京・東品川にあるビケンテクノの東京本部に梶山を訪ねた。スラリとした長身に、センスのいい服装は学生時代から変わっていない。
 日大アメリカンフットボール部のエースワイドレシーバー(WR)として3年連続で日本一を経験。社会人のアサヒビール・シルバースターでも活躍したかつての名選手は、今はビジネス界の寵児として多忙な毎日を送っている。


 「かなりの不良で、荒れていた。よその学校の校長に呼び出されて、スリッパで頭をたたかれたこともあった」。大阪の下町・淡路で、一家の次男として生まれた梶山は、中学時代をこう振り返る。
 追手門学院高校に進学した理由は「男女共学だったから」。中学ではサッカー部だった梶山は、ここでアメフットを始める。後に日大でも一緒にプレーすることになる1年先輩の河野哲朗と、家族ぐるみの付き合いをしていたというのがその理由だ。


 高校3年時に「西宮ボウル」の前座試合、大阪府高校選抜―兵庫県高校選抜で、梶山はキッカーとして大阪府選抜の一員に選ばれる。しかし、弱小チームの選手を見る周囲の目は冷たく「このまま関西の大学に進んでも、一生彼らに見下されると思った」と、日大への進学を決意する。


 「大学に入っても、それは大変だった。周りはみんな高校時代の有名選手。来る日も来る日も雑用ばかりで、いつになったらフットボールができるのかと思っていた」
 そんな梶山に突然チャンスが訪れた。1987年の甲子園ボウル。日大はこの試合で京大に敗れたが、勝敗が決した後半、梶山はフィールドに送り出される。
 当時の背番号は「43」。4年生QB佐藤知浩からのパスを受けた1年生WRは、少し走って京大選手の激しいタックルを浴びる。テレビの解説者が、見慣れない背番号に思わず名前を間違えるというおまけもついた。


 「あの試合は先輩がどんどん壊れて、僕に出番が回ってきた。あのパスを捕ったことで、その後の人生がガラリと変わったと言ってもいい」。日大にとっては屈辱的な敗戦だったが、梶山には大きなターニングポイントとなるパスレシーブだった。


 2年生になった梶山は、エースWRの背番号「22」を背負う。しかし、甲子園での「あのパスレシーブ」があったことで、大きなプレッシャーをも背負い込むことになる。「ポジションを確保するために必死だった。けがをしても、絶対に練習を休まなかった」


 梶山は、その年の西宮ボウルに関東オールスターとして出場する。他校の選手がけがで出場を辞退しおはちが回ってきた。この試合で梶山は、捕っていればタッチダウンというロングパスを、あと一歩のところで落としてしまう。
 帰京後、オールスターを率いた日大の篠竹幹夫監督からこっぴどく叱られた。「お前の地元だから出してやったのに、何だあれは。大阪中が笑ってるよ。親も泣いてるよ」―。その言葉に発奮した梶山は、それまで以上の猛練習に明け暮れた。


 梶山は2年から4年まで甲子園ボウルと日本選手権(ライスボウル)でDE佐々木康元主将、QB須永恭通ら同期とともに3連覇を達成。4年時には年間最優秀選手に贈られる「ミルズ杯」を受賞した。
 1974年に制定されたミルズ杯だが、WRという花形ポジションでこの賞を獲得した選手は、意外にも1990年の梶山と2004年の木下典明(立命大)の二人しかいない。


 厳しいビジネスの世界に身を置く梶山にとって、大学時代の恩師・篠竹監督の存在は、亡くなった今でも自分の中で大きな位置を占めているという。


 「監督の一つ一つの言葉が明確。自分がどこを目指すのか。俺に殴られながら、なんでそんなにしんどいことをしているのか。そうしたことを、巧みに会話の中で投げかけてくる。自分にはそこしかないと思い、逃げ場がなくなる。監督にはとことんけなされて、自分は下の下の人間だと思っていたので、勝つこと以外に余計なことを考えなかった」「試合前の『お前らフィールドで死んでこい。骨は俺が拾ってやる』という言葉は、思い出すと今でも鳥肌が立つ」
 梶山は、大学の4年間で篠竹監督に人間形成をしてもらったと断言する。


 現在会長の父・高志さんが立ち上げた会社は時代とともに右肩上がりに成長してきた。
 山口県萩市出身の高志さんは、関大の夜間に通いながら下宿仲間と商売を始めた。最初は左官業や室内装飾といった分野だけだったが、高度成長期になり阪急電車の電線のコイル移動、梅田地下街のトイレの掃除など、徐々に事業の幅を広げていく。
 現在は飲食業、レンタルビデオ、介護、不動産マネジメントなどの多角化が成功し、年商は300億円に達する。3年前にはシンガポールに現地法人を設立した梶山は、たたき上げの父親を心の底から尊敬している。


 梶山は、経営破綻した日本航空を再生したことで知られる経済界のカリスマ、京セラの稲盛和夫名誉会長が、若手経営者のために設立した「盛和塾」の塾生でもある。


 「大阪にいると関西のことしか分からない。東京にいると、日本全国のことが分かる。シンガポールに行ったら、今度はアジア全体のことが分かる。行ってみないと分からないし、行ったことがある人しか分からないことがある。フットボールも大学2年から4年まで頂点を極めた。仕事も同じで、経験として残っているものは自信になる」
 人との出会いは、人生を大きく左右する。そういう意味で梶山の人生は「運」にも恵まれ、順風満帆と言っていいかもしれない。


 「毎日が勉強」と話し、週に一度英国人との食事会を設定し、英会話に磨きをかけている。楽しみは読書。一年のうち3カ月は海外で仕事をしている。移動が多いので、その間に本を開くのだそうだ。


 最後に「WRというポジションは?」と聞くと、彼はこう答えた。
 「読んで字のごとく、何でも捕れという役回り。今は社長としての立場がある。社員、お客様、そして家族のために頑張るしかない。ボールを受けた後に走るかどうかは、捕ってから決める」―。

【写真】日大の3年連続日本一に貢献したWR梶山龍誠=89年、甲子園