「頓宮」と書いて「はやみ」と読む。頓宮英彦は1991年、「専修大学グリーンマシーン」が、初めて甲子園ボウルに出場した時の3年生QBである。


 1991年11月23日。専大は4年連続日本一を目指した日大と、横浜スタジアムで関東の王座を懸けて「パルサーボウル」で対戦した。この年のリーグ初戦で東大に13―14で敗れた専大は、その後立ち直り、晴れの舞台に進出した。
 「自分たちが思い描いていた展開を先読みされていた」。いきなりつまずいた東大戦を、頓宮はこう振り返る。


 「ウィッシュボーン・フォーメーション」。QBの後ろに3人のRBを配置したラン重視の攻撃隊形は、「Y字型」をしたその形が鳥の胸骨に似ていることから名付けられた。
 専大はRBに粳田盛、関沢剛二、須黒浩とそれぞれタイプの違う逸材をそろえ、「ウィッシュボーン」からの強力なオプション攻撃で王者・日大に対抗した。


 試合はお互いが持ち味を発揮して、白熱した展開になる。勝敗を分けたのは守備だった。日大のショットガン隊形からのパス攻撃に、専大はLB世利勲、DB浜崎太男らが好プレーを連発。結局8インターセプトを奪い33―31で激戦を制し、初の関東制覇を果たした。
 「八つのインターセプトをしながら、2点差。日大の恐ろしさをあらためて感じた試合だった」。最後のTFPのキックを外した頓宮は、今でもその時の夢を見るという。


 12月15日。憧れの甲子園ボウルの相手は関学大だった。前半を0―22のスコアで折り返し、ワンサイドゲームになりかけた。
 しかし、専大は後半から驚異の粘りを発揮する。第3クオーターに粳田の12ヤードランでTDを奪い、第4クオーターには関沢が8ヤードを走りTD。14―25で迎えた場面では、頓宮がゴール前2ヤードからエンドゾーンに飛び込み5点差まで詰め寄ったが、20―25のままタイムアップの笛を聞いた。


 「最後のTDのシーンは今でもよく覚えている。右のフェイクオプション。勝負する(関学大の)選手が、詰めてくるかと思ったらスッと開いたので、そのままキープした。人がたくさんいたので、自分の跳躍力じゃ(エンドゾーンまで)届かないと思った」


 大阪の豊中市で生まれ育った頓宮は1983年、京大が甲子園で日大を破り、初めて大学日本一になった試合を見て刺激を受け、大阪・関西大倉高で本格的にフットボールを始める。以後、一貫してQBをプレーしてきた。
 2年の時は、大阪大会の2回戦で敗退したが、3年時には全国大会決勝に進出する。だが、神奈川の法政二高に敗れ、高校日本一の座は逃してしまう。


 大学は高校の先輩が数多くいる法大への進学を希望していた。しかし、セレクションで不合格になる。3年の夏に実施されるセレクションでは、それまでの実績が考慮され、3年の春も2回戦負けしたチームのQBに、門戸は開かれなかった。そして、関西の有力大学からも声はかからなかった。
 専大に入る際も「QBはいらない。キッカーとしてなら採用する」と言われた。当時は「フットボールが駄目なら、スキーかテニスのサークルに入って、楽しいキャンパスライフを送るつもりだった」という。


 1学年上にQBがいなかったことが頓宮にとっては幸運だった。未熟なプレーを繰り返しても監督やコーチが我慢して使ってくれたことが、成長の糧になった。
 もともと高校ではパッシングQBだったが、1、2年の時はTフォーメーション、3年からウィッシュボーンになり、頓宮はラン中心の攻撃の司令塔役を任される。
 「QBは4番目のランナーという考えがチームにあって、練習でも試合でもガンガン走らされた。パスがないので、試合ではリードされて追いつけないケースが続いた。正直なところ監督やコーチがウィッシュボーンの限界を知って、あきらめてくれないかと思っていた。ラインの人たちはやり甲斐があったと思うが、僕は反対派だった」と打ち明ける。
 しかし、バックフィールドに他校が羨む人材を抱え、これを活用しない手はない。当時の近藤郷司監督の方針にブレはなく、頓宮もその期待に応えた。


 オプションQBは身につけなければならない技術がたくさんある。センターのスナップを受けてからRBへのフェイクやハンドオフ、そしてピッチと短い時間でさまざまな動作が要求される。
 「ハンドリングを鍛えるために、重たいメデシンボールを使った。オプションに必要なステップワークの反復練習も必死でやった」。汗で濡れるボールに苦しみ「夏合宿ではセンターに水を飲まないでくれなんて、無茶苦茶な要求を本気でしていた」と笑う。


 ランの比率が高いウィッシュボーンだが、パスに自信のあった頓宮の仕掛ける空中戦は、効果的だった。「粳田さんは、本能で動く人間離れしたRB。須黒はダイブバックだが、パスキャッチもうまかった。関沢はセンスの塊で、レシーバーもQBもできた」。甲子園ボウルでは、ランよりパスの獲得ヤードが上回った。


 頓宮にとって、最大のライバルは父親の英男さんだったという。学生時代、甲南大のバレーボール部で活躍し、卒業後は母校の監督をしていた英男さんは、頓宮が25歳の時に他界。52歳の若さだった。
 「父親には、どっちが早く日本一になるか勝負だと言われていた。フットボールはあまり分かっていなかったが、スポーツをやっていた目線で厳しく指摘された」そうだ。
 英男さんからは、一度も褒められたことがなかったが、息子が甲子園ボウルでプレーする姿を見て「俺を超えたな」とつぶやいたという。頓宮はその話を、父親の死後母親から聞いた。


 4月に44歳の誕生日を迎えた。大学を出てから、富士通で4年間プレーしたが、最近はフットボールとはすっかり疎遠になっている。
 5月の連休中のある日。東京都内で開催されたシニアの試合会場に頓宮はいた。往年の名選手たちのプレーを見つめるその目は、きらきらと輝いていた。そう、甲子園球場の緑の芝生の上で躍動した、あの時の背番号「9」のように。

【写真】専大のオフェンスをけん引したQB頓宮さん