185センチのスラリとした長身と精悍な顔立ち。本人は「最近はお腹が出てきちゃって」と照れるが、その容姿と醸し出す雰囲気は、ファッション雑誌のモデルとしても十分に通用する。


 渡邉弘幸、48歳。1985年の第40回甲子園ボウルで、2年生ながら明治のエースQBとして活躍した名選手である。関学とのまれに見る激闘は46―48で敗れたが、その華麗なプレースタイルは、今でもアメリカンフットボールファンの脳裏に焼き付いている。


 3月生まれの渡邉は、甲子園ボウルに出場した当時は、まだ19歳だった。1学年上のスーパースターRB吉村祐二とコンビを組んだ、明治伝統の「オプション攻撃」は、この年から常緑となった甲子園球場の芝生で猛威を振るった。
 試合は、第1クオーターに吉村と渡邉のランで13―0とリードする。関学も負けていない。ショットガン隊形から3年生QB芝川龍平が、2年生WR堀古英司へ立て続けにTDパスを決めて第2クオーターに逆転する。前半を終えて関学21点、明治20点。


 関東で宿敵・日大を破って9年ぶりに甲子園にやって来た明治の攻撃は圧巻だった。前年まで、日大のショットガン隊形からのパスを見慣れていた関西のファンにとっては、衝撃的だっただろう。
 吉村のパワフルでスピード豊かなランに、サウスポーQB渡邉の速くて正確なパスを効果的に織り交ぜる。互いに攻撃陣が持ち味を発揮した一戦は、激しい点の取り合いになる。


 そして迎えた第4クオーター14分過ぎ。関学は芝川のランで48―46とする。しかし、明治はあきらめない。渡邉が51ヤードのパスを決めてゴール前へ。残り時間6秒で、関学陣3ヤードまで迫る。
 2点差。ここで明治はFGを選択。キッカーにはそれまでの斎藤ではなく吉村を起用する。だが、蹴ったボールは無情にも右にそれる。試合終了。チーム初の大学日本一には届かなかった。
 試合後に分かったことだが、年間最優秀選手に贈られる「ミルズ杯」を獲得した吉村は、第4クオーター途中で関学DB田原尚登の激しいヒットを受け、脳しんとうを起こしていた。最後にFGを選択した理由の一つである。


 渡邉は、全国でも屈指の東京の進学校「麻布」で中学、高校時代を過ごした。中学時代はバスケットボール、フットボールは高校生になってから本格的に始めた。
 「フットボールに憧れたのは、小学校4年生ぐらい。テレビでNFLを見たのがきっかけだった。麻布では中学から授業でタッチフットボールやっていた。高校に入って1年の時はWR、2年からQBをプレーしていた」


 都立富士高でフットボールをしていた吉村とは、高校時代から親交があった。進学を控えた吉村は「日大に勝てるのは明治ぐらいしかない」という理由で明治に進学したが、1年時は惨敗。その試合に渡邉を誘った吉村は、試合後敗戦をわびた。そして「お前が来れば(日大に)勝てるかもしれない」という言葉が、渡邉の進路を決定づける。


 硬派の「野武士軍団」といった当時の明治のイメージに、渡邉は明らかにマッチしていなかったと記憶している。渡邉自身「オフの練習で霜が張っている地面に段ボールを敷き、腹筋運動500回、スクワット600回といった地味な練習が続き、何でこんな所に来ちゃったのかな、と思った」と振り返る。


 新入生の大半が夏休み前に辞める厳しい練習に耐え、エースナンバー「7」を背負った渡邉は、オプション攻撃の司令塔として飛躍的に成長する。そして、鉄壁を誇った日大の「5・2ローバー守備」を攻略するべく研究を重ね、一つの結論を得る。
 「日大の守備は、真ん中に集中している。そこを支配するために、センターと両ガード、そして吉村さんと僕とで、トラップブロックなどのタイミングを合わせる練習を嫌というほどした」


 1985年シーズン、戦力が整った明治は、秋は関東の優勝候補筆頭に躍り出る。しかし落とし穴が待っていた。リーグ序盤戦で慶応に足をすくわれ後がなくなる。
 「春の関学との定期戦に勝って、鼻高々になっていた」。しかし、これでチームは引き締まり日大を撃破。関東大学選手権では東海大に大勝し、甲子園ボウル進出を決める。


 フットボールは、社会人1年目にクラブチームでプレーしたのが最後。「大学時代のモチベーションは何だったのか?」という問いに、渡邉は「とにかく日大に勝ちたかった。日大に評価される選手になるのが目標だった」と答えた。
 スタイリッシュで泥臭さのかけらも感じさせない男は、来る日も来る日もひたすら反復練習を重ね、明治伝統の「スピードオプション」を磨いたのだという。


 渡邉自らが社長を務める「(株)向原」のオフィスは、東京の一等地、西麻布のビルの一角にある。2009年春に大手広告代理店を退職した渡邉は、現在は夫人の父親が立ち上げた会社のトップとして采配を振るっている。
 海外進出も視野に入れた事業内容は、理美容業全般、オリジナル商品の企画販売、セミナーの企画運営、カフェのチェーン展開と多岐にわたる。


 「代理店で学んだノウハウもあるが、明治で教わった基礎練習の積み重ねといった部分を、仕事でも大事にしている」。ブランド名の「uka」は、さなぎが蝶になる「羽化」から取ったのだという。
 「ひとりの大人としてより美しく輝き、蝶たちが花から花へと受粉の手伝いをするように、世の中に美を広める存在になっていけたら」という思いが込められている。


 取材を終えて「やんちゃな部分を引き出せなかったな…」などと思いながら、大事なことを聞き忘れていたので翌日連絡してみた。
 それは「甲子園ボウルの終盤にロングパスを決めて、ゴール前に迫った時の気持ちは?」というもので、返ってきたメールにはこう書かれていた。
 「これで日本一だ、やっとケリがついた! フツーですみません(笑)」―。

【写真】1988年のヨコハマボウル、全明大-全京大でMVPに選ばれた時のトロフィーを披露する渡邉さん=東京•西麻布