「よくやった!」。たったその一言で、「それまでの苦労が報われた」と話すのは、日大アメリカンフットボール部「フェニックス」の主将としてチームを日本一に導いた関孝英だ。


 1988年12月11日。阪神甲子園球場で開催された「第43回甲子園ボウル」は、4年ぶりに関学と日大の顔合わせとなった。
 主将としてこの試合に臨んだ関は「あの年は、日大史上で最弱と言ってもいいチームだったので、1点差でもいいから勝ちたかった」と振り返る。だが、新チームになってから、篠竹幹夫監督は4年生に一切プレッシャーをかけず、関によれば「信じられないくらい優しかった」という。


 「監督は、合宿所に幽霊が出る年は勝てると言い、マネジャーに風呂場の外で幽霊を演じさせていた。今思えば笑ってしまうが、監督は僕たちに自信を付けさせようとして、いろいろ気遣ってくれた」。学生に「オヤジ」と慕われた、鬼監督のチャーミングな一面を垣間見るエピソードである。


 試合は、予想に反して「パスの日大」が徹底したラン攻撃でライバルに対抗する。一進一退の攻防。前半を14―14で折り返す。
 ハーフタイムでトイレに行った関の隣に、篠竹監督が立つ。試合前日の「(パスを)投げて投げて、投げまくれ!」という指揮官の指示に背き、ランで攻撃を組み立てると決めていた関は「怒られるな」と覚悟を決めた。だが、鬼監督の口から出てきた言葉は、意外にも「この調子でいけ」だった。


 パスを警戒する関学ディフェンスの裏をかくように、抜群のランニングアビリティーを持つQB山田喜弘が、縦横無尽に走りまくる。フィールド中央で、ファーストダウンを獲得するために、山田はOLを信じてダイブした。
 関は攻守兼任のラインとして出場していた。しかし、シーズン中に痛めた左膝は、既に限界だった。「靱帯が、第3クオーターで完全に切れた」。脚を引きずりながらプレーを続けたが、関学の選手から「関さん、脚痛いんでしょう?」と同情される始末。関は苦笑いするしかなかった。


 35―28。日大は攻撃の74プレーのうち、62プレーがランだった。激戦を制した日大は、関学と引き分け両校優勝だった84年以来の大学日本一の座を手にした。
 試合後、記者に囲まれる監督の後ろで、関は直立不動で取材が終わるのを待っていた。それに気がついた篠竹監督の第一声が、「よくやった!」だった。握手を求められた関は、感極まって男泣きした。


 東京の佼成学園高時代から才能を発揮していた関が、大学でレギュラーポジションを獲得したのは2年時から。1年時は明治に敗れ甲子園ボウルに出場できず、2、3年時は水野彌一監督率いる京大に完敗した。
 「2年の時の甲子園で、京大のセンターの屋敷さんと当たって、なんてすごいんだと思った。4年の時の甲子園も京大を想定していた」
 強烈なパスラッシュとレシーバーへの絶妙のバンプを駆使してくる京大には、ショットガン隊形からのパスが通用しないことを身をもって知った関は、最上級生になって「ラン重視の攻撃」を決意する。自分の流儀を押し通す。それも監督には内緒で。


 「ゾーンブロック」。今ではどのチームも当たり前に採用しているスキームを、春に導入する。きっかけは、NFLのシカゴ・ベアーズに所属していたことがある米国人「ロジャーさん」の助言だ。
 理由は今でも分からないそうだが、ボランティア団体の一員として来日した「ロジャーさん」は、ぶらりと下高井戸にやって来たという。その彼が関に伝授したのが「ゾーンブロック」だった。
 米国では既に主流になっていたブロッキングスキームに、関は飛びついた。「相手が動いた方に流すようにブロックする。これなら、デイライトランが得意な山田を生かせる」―。


 京大に連敗したことで、ディフェンスの仕組みも見直した。辞書を片手に英語の文献を読みあさると、京大が日大のショットガンを封じたシステムが浮き彫りになってきた。
 日大が長年採用していた「ローバー・ディフェンス」はランには強いが、3人のDBの負担が大きい。特にSEと一対一になる場面が多いCBの責任が重すぎる。
 「甲子園では、京大のSE福島君のポストパターンにやられた」。その反省から、1年後輩のFS佐川省司と話し合い、セカンダリーの「ローテーション」の導入を決断する。新しい取り組みは、甲子園ボウルで関学から3インターセプトを奪うという形で結実する。


 「問題発言が多い下級生だった」という関は「キャプテンとしての僕は嫌われ者だった」と振り返る。部員に日記の提出を義務づけた。夏合宿前の恒例行事の「富士登山」では、どんなことがあっても全員が頂上まで登ることを約束させた。
 同期の反感を買うこともあった。しかし甲子園ボウル当日、チームは見事に結束する。フィールドに出る直前、佐川ら3年生が下級生に向けた言葉を、関は今でも忘れない。「関さんたち4年生を、笑顔で東京に帰らせる」。その言葉は、毎日自ら添削し、今ではすっかり色あせた部員の日記帳とともに「人生の宝物」だという。


 卒業して四半世紀が過ぎた。「日大らしさとは?」という問いに、関は「相手に負けない気概を持つこと」と答えた。「どんなにいいプレーをしても、ガッツポーズをしない」「相手を見下さない」「4年生は、自分たちが勝てばいいのではなく、後輩が連覇できるように伝承していくことが大切」
 勝つことの難しさを知る関の教えは、翌年の佐川、後の日本代表主将になる2年後輩の佐々木康元と歴代主将に引き継がれ、日大は日本選手権3連覇を達成する。


 関は、長年勤めた銀行を辞め、この4月から大正大の仏教学部3年に学士入学する。徳子夫人の実家が東京の府中市にある天台宗のお寺で、ゆくゆくは住職の義父の後を継ぐのだそうだ。
 古傷の左膝が曲がらず、僧侶の「ファンダメンタルポジション」ともいえる「正座」ができないのが悩みだが、10年前にお坊さんになるための手続きは済ませていた。


 「人間には本来、自他の区別を忘れて一切を同じように愛しく思う性質が備わっており、全ての人がその素晴らしい性質を発揮するなら、この世界こそが浄土となる」。天台宗の教えの一節である。
 「勝つためにはどうしたらいいのか」。大学時代、毎日そう自問自答し、チームをまとめることに腐心してきた男である。きっと仏教という深いテーマとも真摯に向き合い、僧侶になるための厳しい修行に耐えていくのだろう。

【写真】4月から大正大の仏教学部に学士入学する関孝英さん