10歳の時に東京の目黒から移り住んだ立川は、米軍基地の街だった。校舎の窓は、輸送機やヘリコプターの爆音を遮るため2重になっていて、映画館の座席は米兵のサイズに合わせてかなり広かった。


 子どものスポーツは、ここでも野球が中心だったが、米軍の子どもたちとの交流が盛んで、試合はリトルリーグのルールを採用し、小ぶりの硬球でプレーしていた。
 基地の中には、手入れの行き届いた緑の芝生が鮮やかな少年野球専用のフィールドがいくつもあり、でこぼこの土のグラウンドでしか野球をしたことのないわれわれは、それだけで圧倒された。


 小学生レベルでは、日米の体力差は感じなかった。むしろ日本人の方が器用で、足も速かったと記憶している。ただ、プレーの質は基地の子どもたちの方が洗練されていた。勝率は五分だったが、こちらが負けると、不思議とハンバーガーやホットドッグが大量に振る舞われた。


 野球のシーズンは春から秋口にかけて。その後はアメリカンフットボールのシーズンがやって来る。初めて見た試合は、立川と横田の米軍対抗戦。ベトナム戦争中のこの時代、兵役を終えたらプロフットボールに復帰するという兵隊さんも結構いて、それは迫力十分だった。


 日本の野球チームの監督兼世話役をしていた保育園の「園長先生」は、大のスポーツ好きで英語も堪能だった。「園長先生」は基地の上層部と掛け合い、日本の子どもたちもプレーできるように頼み込んだ。父兄を集め、まずはルール説明。それから、大人がついていればフルコンタクトでもいかに安全かを司令官級の人たちが熱心に指導してくれた。
 日本初の少年アメリカンフットボールチーム「立川ジェッツ」はこうして誕生した。


 防具とユニホームは米軍のお下がりだったが、「立川ジェッツ」は強かった。基地のリーグ戦に参加して、すぐに優勝争いをした。優勝決定戦はテレビで放送もされた。
 当時の「NET」、現在の「テレビ朝日」が、この日米対決を中継。歴史的な試合は12―12で引き分けた。RBとDBで出場したこの試合は、少年時代の数少ない誇らしい思い出だ。


 スポーツの「シーズン制」を意識しだしたのは、この頃からだ。一年中同じスポーツを続けているより楽しいし、何より運動神経に幅が出ることを実感した。フットボールが終われば次はバスケットボール。基地の街立川は、まさに「アメリカ」だった。


 「シーズン制」はなかなか日本では根付かない。1980年代。高校野球で一世を風靡し、その後プロ野球でも一時代を築いた大阪・PL学園高の桑田真澄投手と清原和博内野手が春夏の甲子園で大活躍する姿を取材して、冬はアメフットとは言わないが、せめてラグビーで花園を目指してくれたら、野球とはまたひと味違う楽しみ方ができたのではと思ったものだ。


 さまざまなスポーツに親しむ機会があれば、子どもたちの可能性は無限に広がる。鉄は熱いうちに打て、である。

【写真】「立川ジェッツ」の活躍を伝える、当時米軍基地内で発行されていた新聞