出番は終盤にやってきた。12日2日に横浜スタジアムで行われた社会人Xリーグ準決勝の鹿島―富士通。鹿島の森清之ヘッドコーチは、負傷退場した先発QB加藤翔平に代え、控えの山城拓也をフィールドに送り出す。日大出身の山城は入社4年目だが、2年後輩で関学大出身の加藤にエースQBの座を譲っている。めぐってきたチャンスで、山城はベンチの期待にこたえる。第4クオーター、自らのランで相手ゴール前に迫ると、最後はRB岩倉慶成へ勝利を決定付けるTDパスを決めた。


 「僕が出場するのは、加藤の調子が悪かったり、今日のように負傷した場面。控えに甘んじているのは正直なところ悔しいが、試合中は常に最高の状態で出られるように準備している」。緊急登板でチームの勝利に貢献した山城は、自らの置かれた状況で精いっぱいのプレーを心掛けているという。


 2007年5月6日。春恒例の関学大と日大の定期戦は、土砂降りの雨の中、神戸の王子スタジアムで行われた。当時3年生だった山城は、40ヤードを4秒4で走るスピードと、抜群のパッシングセンスを持ち、1980年代中盤から90年代にかけて一時代を築いた名QB松岡秀樹(日大―レナウン)の再来と言われていた。


 エースの座を争っていた4年生QB木村幸二郎と交互に出場していた山城がアクシデントに見舞われたのは、この試合の中盤だった。自ら右のオープンを切れ上がった際に、相手ディフェンダーの激しいタックルを受け、首を痛めてしまう。山城はそのまま救急車でスタジアムを後にし、入院を余儀なくされる。


 けがは、首と左腕を結ぶ神経が2本抜け落ちるという、極めて深刻なものだった。その年、日大は17年ぶりに甲子園ボウル出場を果たす。
 しかし、その晴れ舞台で山城がプレーすることはなかった。木村も脚を負傷し、日大は関学大との大一番を3番手の2年生QB平本恵也で戦うしかなかった。
 結果は3点差で涙をのむが、平本の獅子奮迅の活躍で、日大は宿命のライバルと大会史上に残る名勝負を繰り広げた。


 最終学年を迎えた山城は、エースナンバー「10」を受け継ぎ副将にも指名される。ただ、ユニホームを着ても思うようにプレーできず、サイドラインでもどかしさばかりが募る日々が続いた。
 最初に診察を受けた病院では、フットボール選手を続けるのは無理と診断された。しかし、山城はあきらめなかった。山口県の病院に権威の医師がいることを自ら調べ上げ、2度の手術を受ける。勇気のいる決断だった。


 「リハビリをする姿は、それは壮絶なものだった。動かない左腕を体にくくりつけて、他の選手と同じ練習メニューを、歯を食いしばってこなしていた」。大学で山城を直接指導していた須永恭通・現ノジマ相模原ヘッドコーチは、当時をこう振り返る。手術と執念ともいえるリハビリの効果で、秋のリーグ戦では大事な試合で司令塔役を任されるまでに回復する。


 左腕の筋肉は、まだ完全に戻っていない。だが、鹿島のメディカルスタッフの献身的なサポートの成果もあり、今では不自由なくプレーできる状態になっている。
 同様のケースで、アメリカンフットボールのような過激なスポーツを続けている例は極めてまれで、海外の医学雑誌にその回復ぶりが紹介され、学会でも驚きの声が上がっているという。


 山城は言う。「けがをする前は、足に自信があったのですぐに走っていたが、けがをしてからは、どうやって周りの選手を生かすかを考えるようになった。フィールドもよく見えるようになり、QBとしては一回り成長したと思う」。淡々と語る口調に、絶望のふちからはい上がってきた人間だけが持つすごみを感じさせる。


 鹿島は12月17日に東京ドームで強豪オービックと日本選手権(ライスボウル=1月3日・東京ドーム)出場を懸けて対戦する。
 愛着のある背番号「10」を今季からつける山城は「目標は、あくまで日本一になること。だから、ここで負けるわけにはいかない」。クリスマスに26歳の誕生日を迎える男の挑戦は、これからが正念場だ。

【写真】途中出場でパス10回投9回成功させ、チームを勝利に導いた鹿島のQB山城=2日、横浜スタジアム、撮影:Yosei Kozano