元アサヒビール社長で、内閣特別顧問などを歴任した樋口広太郎さんが9月16日、急性心不全で亡くなった。86歳だった。
 住友銀行(現三井住友銀行)副頭取を経て、1986年にアサヒビール社長に就任した樋口さんは、ヒット商品「スーパードライ」の生みの親として有名だが、アメリカンフットボールの社会人クラブチーム「アサヒビール・シルバースター」のオーナー、プロスポーツ振興会議の議長を務めるなど、経済界きってのスポーツ好きとしても知られていた。


 18年前、樋口さんに東京・吾妻橋にあるアサヒビール本社の会長室でお話を伺う機会があった。92、93年度と2年連続で日本選手権(ライスボウル)を制したチームのオーナーに、そのスポーツ観を聞いた。
 チームが強くなった理由を、樋口さんはこう答えた。「まず第一に組織の充実。スポーツは選手だけでなく、いいコーチ、医師、トレーナーなどがそろっていなければならない。その意味で、うちは人材がそろっていた。二つ目は小、中学生を対象にしたジュニアチームの導入。これはクラブチームにしかできないことで、高校のレベルアップにつながっていると思う」


 「シルバースター」は、70年に「フットボール界の輝く星になろう」を合言葉にクラブチームとして誕生した。メンバーは、後に日本代表監督になる阿部敏彰、天才QBといわれた佐曽利正良ら日大の黄金期を築いた名選手が中心で、国内に敵はなく在日米軍も一目置く存在だった。


 しかし、80年代に入ると企業チームが台頭。シルバースターは新人の獲得もままならない状態が続き、櫛の歯が欠けたようにチームは急激に衰退した。そんなチームを救ったのが、樋口さんだった。「金は出すが口は出さない」を貫き、忙しい身でありながら、チームの関西遠征について行くために、わざわざ出張をつくって応援に駆けつける熱の入れようだった。


 時代も味方した。水野弥一監督率いる京大で〝怪物〟と呼ばれ86、87年の甲子園ボウルで年間最優秀選手に選ばれたQB東海辰弥をアサヒビールの社員として採用。アサヒビールがスポンサーについた88年以降は経済的な不安が消え、強豪大学出身者が続々と入部し、4年後初の日本一に輝く。


 故篠竹幹夫前日大監督と、まるで兄弟のように仲が良く、食事などをともにしていたのもこのころだ。余談だが、〝鬼監督〟として近寄りがたいオーラを発していた当時の篠竹氏に、人前で意見した人物は樋口さん以外に見たことがない。


 フットボールとの出会いは「水野監督と知り合ったのがきっかけ。京大は僕の母校。当時の京大のユニホームがあんまりボロなんで寄付したのを機に、フットボールとの付き合いが始まった」という。
 2000年にはコミッショナーに就任。名実ともに日本のアメリカンフットボール界のトップとして、その発展に力を尽くした。


 樋口さんが倒れたのは2001年10月。以後、11年間の闘病生活が続いた。洗礼名「アウグスティヌス樋口広太郎」。東京都内の教会で営まれた通夜で、樋口さんが敬けんなクリスチャンだったことを初めて知った。
 喪主を務めた公子夫人は樋口さんを「いくつになっても幼子のような心を失わなかった人」と表現し、「皆さんから、もう一度樋口さんに怒られたかったという声をいただいた」という話が披露された。病床では、大好きなオペラや絵画鑑賞ができなくなったことを寂しがるとともに、チームの動向をしきりに気にしていたという。


 会長室でのインタビューは、予定の時間を大幅にオーバーした。話題はスポーツだけにとどまらず、ご自身の人生哲学にまで及んだ。
 帰り際、樋口さんは部屋にある大きなクローゼットをいたずらっぽく開けて見せてくれた。中には1000本近いネクタイがあった。「気に入ったものがあれば、持っていきなさい」。あの時いただいたシックなデザインのネクタイがそれなりに似合う年齢になった今、樋口さんの言葉の一つひとつが心にしみる。

【写真】元アサヒビール社長の樋口広太郎さん