1952年(昭和27年)の12月7日、甲子園球場では、ドナルド・オークス監督の薫陶を受けて、当時日本で最新の技術を身につけた日本最強のチームが、攻守にその力を存分に発揮していた。
 そのさまを外野のスタンドから、高校では日本最強のメンバーたちが、息をひそめ、固唾を呑んで凝視していた。


 堂々と真正面から、西の代表関学を木っ端みじんに打ち砕いたオークス立教は、20―0の完封勝ちを収めて球場を去った。
 口にこそしなかったが、つい先ほど2年連続高校日本一になったばかりの関学高の選手たちは、次の甲子園ボウルの相手は、この立大以外にはないと確信していた。


 さて話が変わる。前回の第6回甲子園ボウルで慶応高に快勝した時に、付け加えねばならなかった話である。ほかでもない。例の連勝記録である。
 そう、この51年がスタートだった。関学高はこの昭和26年のシーズンを、18戦全勝で乗り切った。これが、1年や2年なら別に不思議でもなんでもない。しかしこの負けなしの戦績は実に11年間続いたのだった。


 やはり「特筆もの」である。始まりは51年1月27日、関学で行われた兵庫、星陵の両高合同チームとの試合である。フットボールを始めたものの人数が足りない。そこで2校でチームを作ったという事情が手に取るように分かる。


 よく晴れて寒さはそれほどでもなかった。今では高等部の校舎が建っているが、かつては野球場のすぐ東隣。左翼の一段「下」にあったグラウンドが使われた。
 試合はなぜかタッチフットボールではなく、タックルの試合だった。私たちは採用したばかりの「T」を使ったようである。得点は第1Qにエースの稲垣昇さんが右エンドランで 先取点を奪い、第4Qにもパントリターンで加点、13―0で勝った。


 今考えると小差だが、守備が素晴らしく、主将でガードのの佐藤市郎さんと同じくガードの木谷直行さんが好タックルを連発して、危なげなかったそうである。


 この年の最終戦は前回述べた甲子園ボウル。慶応高に29―0と完封勝ちして18勝目を記録した。もっともこの連勝記録、19とする意見もある。
 中身は純粋の白星が18で、不戦勝が「1」あるからだという。この時代、確かに不戦勝は多かった。高校の場合、人数が11人そろわず、やむなく棄権するケースも多かったが、同時にあのチームは当たりが強いので、やりたくない、と逃げ出すケースもあったらしい。


 勝ち抜き戦、総当たり戦を問わず、日程がきちんと組まれている公式戦では、不戦勝もかなり意味を持つが、両校の申し合いで予定を組んでいる場合など、全く同じように考えるのは無理がありそうにも思う。


 この年には4月の三島野高の1試合だけが不戦勝だった。だが52年(昭和27年)には9月に星陵高、10月に兵庫高と2試合が流れて不戦勝扱い。さらにこれは西日本の決勝戦と思われる山口高の試合も不戦勝となって、合計3試合の「白星」がカウントされている。
 つまり「18戦全勝、うち3試合は不戦勝」とするのか、「15戦全勝。ほかに三つの不戦勝」とするのか。細かく詮索する気はないが、要するにこの2年間は予定37試合、33勝4不戦勝0敗、だったのである。


 さてこの52年は、関学にとって画期的な年となった。米田満さんが、関学へ戻ってきたのである。米田さんは出身が神戸二中(現兵庫高校)。45年に関学へ進んだが、戦争末期の戦災のため、1年休み、46年に復学した。
 この年の秋、それもシーズン半ばにフットボール部へ入り、以後常にフットボールとともに歩み続けた。当初はエンド。当時はすばしっこくて捕球能力に優れていれば、背丈の方は問題にならなかったが、やはり今風にレシーバーとした方がいいかもしれない。のちに米田さんはシングルウイングのQBとして名をとどろかせる。


 そして、49年の第4回甲子園ボウルで主将の渡辺年夫さんを補佐して初優勝。翌50年には主将として2年連続の日本一を獲得した。
 51年(昭和26年)に神戸新聞入社。記者生活の傍ら母校のコーチも務めた。だがこれには限界があった。フットボールへの熱情を断ち切れなかった米田さんは52年、神戸新聞を退き、関学高等部で体育の先生となたのである。いわば立大のオークスさんに続く専任コーチ、それも日本人としては初の専任コーチとなった。


 当時、専任コーチの重要性がどれほど浸透していたことか。今でこそ監督、コーチの能力、方針、人柄などが大いに語られ、注目されるようになっているが、この当時は多分にチームの飾りのようなところがあった。
 しかしフルタイムでチームを指導する監督、コーチが見事な成果を上げるようになると、認識は大いに変わっていった。


 関学高等部は、春のゴールデンウイークに東京遠征を打ち出した。3日に麻布、4日に九段、5日に慶応と3日間3連戦の日程だった。
 今では驚くようなハードスケジュールだが、このころの認識ではそうではなかった。高額な交通費、宿泊費を考えると、少々の無理はやむを得なかった。
 50年春、本格的なタックルの試合をしていた山口高校が関西へ遠征しているが、この間の事情はまた「生き字引」の古川明さんあたりから、しっかり聞いておく必要がある。


 主将に木谷さんを選び、副将にFBの芳村昌悦さんが就いてスタートした私たちのチームは、4月19日に兵庫高を27―0、同26日に豊中高を25―0とそれぞれ完封した。
 兵庫の試合は、稲垣を改姓した山田さんがオープンを快走し、芳村さんが見事なクリスクロスで、加点と第1Qで3TDを重ねた。2軍以下が、第4Qまでつないだ後、鈴木智之さんがパントリターンで追加点した。


 豊中戦は相手の守備に手を焼き、第1Qの最終プレーで大藤努さんが左へ走ってようやく均衡を破り、第2Qにはのちに立大のエースとなった竹内さんが右オープンを快走して12―0。第3Qには、2TDを加えて勝負をつけた。
 開幕当初の試合は、よくプレーを制限されることが多かったが、この2試合はどうやらパスを制限されて戦ったような形跡がある。


 さて東京の3連戦である。宿は水道橋で都電に乗り換え、初音町下車。これはもうまぎれもなく「都館」である。のちによくお世話になった旅館で、名を書くだけでも懐かしい。


 遠征の初戦は名門麻布、場所は東伏見の早大グラウンドだった。他の試合は失念しても、この試合だけは決して忘れることはあるまい。私にとって最も重要な試合だからだ。
 ほかでもない。実質8年間に及ぶフットボール生活で、唯一TDを挙げた試合だったからだ。


 キックオフは関学。麻布は自陣20ヤード線あたりから最初の攻撃に臨んだ。最初のシリーズの2プレー目だった。麻布の左エンドが外へ出た。6―2守備の右のLBを務めていた私はそれを追って外へ出た。
 その目の前へボールが飛んできた。スピードといい、高さといい、どれをとってもインタセプトするには最適の条件を備えているボールだった。難なくそれを受けた私は、そのまま直進し、あっさり先制のTDを挙げた。


 心躍る思いだった。私がボールを抱えて走る行く手には、西武線の線路まで続く畑が広がっていたような記憶があった。遠征最初のTDを挙げたうれしさは、かつて味わったことのないものだった。


 麻布戦は65―0と大勝した。翌4日は神宮競技場で、九段高と対戦し58―0。明大―関学の定期戦の前座として行われた。
 大学の定期戦は関学が6―0の辛勝だった。5日は再び東伏見へ戻り、慶応高と対戦。37―0と完封した。3試合で合計160点を記録し、失点0の東京遠征だった。

【写真】東京に遠征した関学高は3試合連続で完封勝ちした