前回の「締め」の一節を書いていた時である。電話が鳴った。受話器から、ぶっきらぼうな声が響いてきた。友人の、つまり昔のフットボール仲間の木谷さんだ。
 「訃報や」。弾まぬ声である。「また減ったわ」。そして、一呼吸置いて「チューや」。


 「あ、とうとう」と思った。心のどこかに置いてあった追憶の小さなひとひらが、風に飛ばされたように思えた。
 通夜と告別式。会場と時間などを事務的に伝えた後、木谷さんは「どうするの、来るの?」と尋ねてくれた。「多分な」。


 「チュー」はしつこいところからついたあだ名である。関学中学部から高校、大学を通じての同級生で、フットボールを通じてこの歳まで「おれ、お前」と呼び交わした仲間だ。本名、鈴木智之さんである。ポジションはQB。


 関学大のアメリカンフットボールOB会の名簿に、私たちの学年は15人の名があった。当時のアメリカンフットボールの普及度から考えると、かなりの大所帯である。
 だが、1997年にFBだった芳村昌悦さんが天に召されてから、その仲間が、2年に1人のペースで亡くなっていった。「また減った」と木谷さんが嘆くのも仕方のないことで、鈴木さんはちょうど10人目になる。


 いつだったろう、最後に会ったのは? こんな時、人はよく「その日」を語り合う。昨年私は2度会っていた。一度は3月21日、関学の125周年を記念して、フットボール部がプリンストン大を招いて試合をした時だ。
 チューさんはメーンスタンドの中央部に、チャック・ミルズさんと並んで、最後まで試合を観戦した。1963年卒の山本恵一さんが3人をカメラに収めてくれた。


 脳と心臓に極めて危険な個所を抱えて、一生懸命に生きていた。外出は車いすだった。その外出そのものも、できればしない方がいい、という状態だったそうである。
 しかしチューさんはそこを、その人生の節目を、ただの一度も端折らないで生きてきた。俺が行かなくてどうするという姿勢は、昔もプリンストン大を迎えた時も同じだった。


 だから夏に、8月26日の米田満さんの傘寿の祝いの時も、チューさんは車いすで参加し、会がお開きになるまで、談笑の座を離れなかった。私にとってはこれが「その日」だった。


 葬儀の日、木谷さんが「向こうで大歓迎されとるかもしれんな」と言った。二人で名を挙げてみた。大体各ポジションの選手がそろった。肝心のQBの座にチューさんが「登場」して納まりがついた。
 ちなみに「生存者」は、主将でガードの木谷さん。もう一人ガードがいて宮石幸一さん。センターの私。大学進学時に野球部からフットボール部へ3人が移り、エンドでプレーした清家智光さん、ハーフバックの岡本敬一さんがご存命である。すべてをひっくるめて5人だけになった。


 さて、鈴木のチューさんである。静岡のご出身の家系だそうだ。こんな文章を書くことになろうとは、思いもしなかったので、遊びに行ったり来たりしていたころ、小耳に挟んだままである。
 富士歯輪KKを興され、のちに豊中の市会議長となられた寅松さんの次男である。妹さんの賀津子さんは後年、米田満監督に嫁がれた。


 彼がアメリカンフットボールに取りつかれたのは、中学部1年からである。中豊島国民学校の遊撃手だったチューさんを筆頭に、練習というより遊びの延長戦上のような形で楕円球を追っていた。
 ほんの一時期だが、図書館前の芝生で練習をしていたアメリカンフットボールの人たちを、帰宅の途中でずっと眺めていたのが、このスポーツに親しむようになったきっかけである。


 こうしてフットボールに興じるようになったチューさんらを、今度は大学生の米田さんらが、優しく手元へ引き寄せた。
 プレーの手ほどきをし、陰になり日なたになって支援し続けていた。他の運動部には見られないつながりだった。


 3年になった。豊中在住で、サッカーに親しんでいたグループが、同じ豊中のチューさんと親しさを増すうちに、一緒にスポーツをやろう、球技をやろうということになっていった。
 サッカー組はラグビーに興味があったが、部が成り立つ可能性が乏しいのに気付いた。実現は将来のことにして、当座はタッチフットボールをやろうと、合併が成立した。高校ではラグビーだと語っていたサッカー組に対して、チューさんだけはいくら誘っても「オレはラグビーはやらん」と、首を振り続けていた記憶がある。


 中学生が考えることである。フットボールを楽しんでいるうちに、私たちサッカー組はその魅力にどっぷりとつかることになった。
 その中でチューさんだけは、揺れ動く同級生をよそに、フットボール一本の姿勢を貫いていたのだ。この間の事情は、関学のアメリカン仲間を書いた拙著「いざ いざ いざ」に詳しい。


 練習やフォーメーションなど、大学チームをそっくりまねた私たちは、この後文化の日に大阪の北陵中と最初の対外試合を行った。
 学内でのフットボールに対する認識が、急激に高まった。この対外試合、チューさんがほとんど一人で交渉に当たった。フットボールにはマメだった


 中学部のタッチフットボールはこうして毎年成長し、高等部、大学へとフットボールの絆を伸ばし続けた。無論チューさんがいなければ、こうした「中、高、大」の一貫体制は生まれていなかった。
 いわば関学フットボールそのものを基礎から築いた功労者の一人としてチューさんを認めねばなるまい。


 チューさんは終始QBだった。米田さんに師事し、自らもフットボールのオフェンスを極めようと常に努力していた。それもシングルウイングに始まって、Tフォーメーションまでを見事にこなした。
 投げてよし、走ってよし、プレーコールしてよしだった。やるところを見たことがないので、何とも言えないが、パントやプレースキックも、そつなくさばいたかもしれない。


 こうした攻撃面での才能は無論だが、私は真っ先に守備での技術、能力が優れていたことを強調したい。
 まずは当時の慣習として、QBは守備ではセフティーだった。付け加えるとこのころは、両ハーフはCBに、FBはLBに入った、ラインは両エンドがそのままDEに、タックルはDT、ガードはDG。センターがもう一方のLBを任された。


 で、そのセフティーだが、とても安心して見ていることができた。動きが的確だった。正しい位置へ、いつも正確に動いた。
 パスの少ない時代ではあったが、チューさんを抜き去ることができたレシーバーが、果たしてどのくらいいたか。しかも早い。足の速さではない。判断が速いのである。


 のちにラインが5人の、「ツーディープ」の時代が来ると、主にストロングセフティーを買って出て、ライン後方から目の覚めるような突っ込みを見せた。後年、ほれぼれするような動きを褒めると、こともなげにこう言った。「あの位置に立っていると、どこへ来るのかよう見えるんや。あ、ここかと狙いをつけて突っ込むだけや。何も難しいことあれへんで」


 無論タックルがうまかった。相手を跳ね飛ばすような強烈なものではなく、膝へ肩を入れてクルッと一回転。腕がよく締まっているので大体一発で倒れた。
 QBとしての技術よりも米田さん直伝の技術は、このタックルではなかったかと思う。そして私はチューさんは日本最初で最高のストロングセフティーだったと断言したい。


 攻撃面へ移る。パスが最高だった。畏友木谷さんが言う。「チューさんのパスは、普通の運動神経があれば、誰でも取れた。それだけ味方には優しいパスやった」。その通りなのである。
 言葉のあやで、よくわからぬ表現になるのをお許し願いたいが、チューさんのパスは遅いのか。遅くない。早いのか。早い。回転しているか。回転している。正確か。正確だ。受けにくいのか。受けにくくない。受けやすいのか。受けやすい。といった言葉で説明したくなる種類のものだ。一言でいうとレシーバーに優しいパス、なのだ。


 強肩、ボールの回転、スピード、制球力。球の勢いならチューさんをしのぐ人はたくさんいた。しかし受けやすい球を正確に味方の選手の手の中へ投げ入れる能力では、チューさんをしのぐ人はあまりいなかった。
 第10回甲子園ボウルの、あの劇的な同点TDパスを、その好例としたい。


 このシーンを語る木谷さんの意見は、傾聴に値する。
 「俺のところへは誰も来なかったので、ずっと見とったんや。あのポケットの中で彼は右へ動いている。受け手の西村のコースを追いかけるようにボールを投げた。角度は付いていない。レシーバー自身が落下点を調節できるボールだったというわけだ。無論パスは完璧で、西村がそうする必要は全くなかったが…」


 「パサーとしては目標を確認するために、あそこではポケットの左へ動くのが普通やろう。しかし、それだとボールの飛ぶコースと、レシーバーのコースとの間に少し大きめの角度が付く。そのため、落下点は1カ所だけになりかねない。チューの動きは、その危険性をとっさに避けたのじゃないかと思っている」


 RE西村一朗さんはこのボールを肩越しに受けた。速度も落ちることなく、一気にエンドゾーンへ走りこんだ。26―26。甲子園ボウルの有名な同点シーンである。


 チューさんはこのほか、ボールキャリアとしてもレシーバーとしても一流だった。年を追うごとに、プレーコールが私たちにとって単純明快になっていった。
 言い方を変える。チューさんがコールするプレーで面白いようにTDが取れた。実は私たち、ゴール前で押し合いへし合いした記憶はほとんどない。相手陣深く追い詰めて、そのディフェンスが厚みを増す前に、さっさと点を取るのが常だったからである。


 ブロッカーとしてもセンスのいい効果的なブロッキングをしていてことは「いざいざいざ」に出てくるので、お持ちの方は探していただきたい。
 要するにこの鈴木さんという人はフットボールで必要なこと、しなければならないことはすべてできたし、やりこなした人だった、といえる。私はこの有能なQBを突き指させてはいけない、痛めるような球を出してはならないとそれだけを考えて、ダイレクトスナップのボールを出し続けた。いいセンターだったと自負する。


 チューさん。君と過ごしたフットボール生活は楽しかった。面白かった。実があった。ありがとう。
 今日ここに書かなかった話はいずれまたどこかで書かせていただくつもりだ。材料が豊かで、誠にありがたい。どうか安らかに。

【写真】昨年3月にプリンストン大学を招いて開催された「レガシーボウル」を観戦する(右から)鈴木智之さん、チャック・ミルズさん、筆者