1952年(昭和27年)の立大は王者らしい王者であった。選手は大柄だった。加えてスピードがあった。個々の当たりも強かった。その上一糸乱れぬ攻撃をし、守備は堅かった。どこから見ても完璧である。
 フットボールの経験は浅く、知識も乏しい日本の各大学の指導者、選手からは間違いなくそう見えた。どうしてこんなチームができたのか。前回も触れた。ひとえにドナルド・オークス監督の力である。


 当時の立大の若いリーダーや選手の方々が語ったものを見ると、オークス監督は攻撃では「ノートルダムT」と、守備では「5メンフロント」を示したものの、「基本なくして進歩なし」と、その形にのみこだわることなく、むしろファンダメンタルを厳しく指導された。
 つまりこの当時の立大は、ブロッキングとタックリングを平素の練習で、いやというほど繰り返したという。


 同時にこの年、現在もおなじみの上下とも白一色のユニホームに変わった。上腕部の3本線がアクセントで格好良かった。
 その上、甲子園ボウルの50周年記念プログラムによると、強くて格好いいと、入部希望者が押し掛けたそうである。部では50人ほどの志望者をテストで20人に絞り込み、うち18人が入部したとある。


 オークス監督就任前年の48年には、部員13人のこじんまりした所帯だったのが、50年には20人、51年には25人と少しずつ増えて、この52年には一気に40人を突破した。
 希望者の中には、タッチフットボールの経験者が15人。ラグビー、柔道などの転身者が8人と、素材にも恵まれた。ツープラトンという言葉が入ってきたころだったが、それも一気に可能になった。


 順風満帆の立大だった。その立大を栄光に向けて駆り立てていた原動力があった。つまり、前年のゴール前3ヤードに迫られた冷や汗のシーンである。これが連覇への出発点だったという。
 前回触れた通り、19―0と順調にリードを広げながら、関学の後半の猛反撃で5点差にまで追い詰められ、「あわや」の事態を招いたのはご承知の通り。
 52年の主将を務めたエンドの宮川一郎さんは「あれを取られていたら、19―20の逆転負けだった。これを肝に銘じて甲子園に臨んだ」と語っている。


 リーグ戦はまったく危なげなかった。特に、甲子園ボウルの反省を生かした守備力の向上が印象的だった。
 第1戦の日大戦こそ、若手を繰り出したために25点を奪われたが、66得点を記録しての一方的勝利。以後の4試合は慶大に1TDの6点を許しただけの安定した守りで、悠々と連覇を遂げた。


 「ゴール前3ヤード」は関学にも大きな影響を及ぼしてはいたが、立大ほど厳しい受け止め方ではなかった。勝負事の恐さ、最後まであきらめるなという教訓はちりばめられていたものの、チームに驚くよう変化が起きたわけではなかった。
 書いていてつらいのは、時代の流れに乗る立大に対し、関学の強化策が時代の流れに沿ったものかどうか。シングルウイングに一段と磨きをかけたものの、それ以上ではなかったのである。


 練習用のチームとしてノートルダムTをリードしていた武田建さんが著書の中で、甲子園に臨むチームの実情を語っている。現にそのチームの一員だったわけだから、その切羽詰まった状態は、他人ごとではない緊迫感に満ちていた。
 「もうシングルウイングはないものだと思いました。ただ、私たち下級生はいいけれど、シングルウイングに長年慣れ親しみ、二度(第4、5回甲子園ボウル)の学生日本一を獲得した時の中心選手だった最上級生はそれでもいいのだろうかと思いました」


 時代は明らかにシングルウイングからTに、雪崩を打って変わろうとしていた。それと並行して、昨年とは雲泥の相違の守備力の向上があった。そうした背景を考え、その先頭を切っていた立大の戦力は、他を圧するものがあった。


 12月7日の阪神甲子園球場は朝から快晴だった。私鉄の労働争議が盛んな時代で、この時も阪神電車をはじめ、関西私鉄のストが予定されていた。
 地元の私たちはともかく、遠来の立大勢はストの場合の1日伸ばしを恐れていた。選手によると、宿舎の球場の和室でまんじりともせず夜を明かし、夜明けに一番電車が動き出したのを知って、大喜びしたとのエピソードがある。


 さてゲームの方は、私たち高校生が都立西高を47―0で退けた後、立大が手堅い試合運びで危なげなく連覇への道を進んでいった。


 当時、甲子園ボウルでは「先手必勝」がくどいほど語られていた。立大も同様にそれを強調していた。キックオフで野村正憲さんが50ヤード線付近まで一気にリターンして勢いづいた。
 ここで立大が誇るバックス陣が見事な脚力を見せた。まず左のHB杉原佳男さんが中央を突いて20ヤードをゲイン。FB由家康喜さんの左オフタックルでさらにダウンを更新したあと、杉原さんが再び中央突破。試合開始わずか1分後、3プレーで先制のTDを奪い取った。絵に描いたような「先手必勝」だった。


 立大にはもう一人、最上級生のHBに中沢貞夫さんというスターがいた。2年連続でリーグ戦の最優秀選手に選ばれた方で、その人が走るまでもなく先取点を記録したことになる。
 QBの野村さんは中沢さん、杉原さんを交互に走らせる手堅いプレーコールで、第2Qには杉原さん、第3Qには中沢さんがそれぞれ胸のすくようなTDを挙げて差を開いた。


 これでパスを使っていれば、もっと差は開いただろうが、立大はあくまでも手堅く、野村さんは後半、それも大勢が決まるまでパスを投げなかった。
 それでも、宮川さんに通したバスなどは、勝負が決まってしまっていたにもかかわらず、後援の毎日新聞が、その見事さを絶賛したほどだった。


 確かに立大のノートルダムTはよく練り上げられていた。しかし、本当に評価しなければならないのは、先にも書いたが、ディフェンスだった。
 前年、関学の練習用のチームのTフォーメーションに結構な距離を進まれて、TD1本を取られたのは、ほかでもない「T」の攻撃は身についていても、守りの方が未整備だったことを物語るのではあるまいか。


 経験だけでものを言っているが、新しいフォーメーションで他を席巻しているチームでも、同じプレーで攻められると意外にもろいことがある。恐らく同じフォーメーションに対する守りの整備に、手が回らなかったからだろうと思う。フットボールではこういうことが時々起こる。


 だが、この時の立大は違った。万全の構えで関学の繰り出すシングルウイングを抑え込み、この年取り入れたスプリットTも寸断した。使った守備はこれまで同様、前列5人を並べたが、LBは2人。「5―2オクラホマ」として知られる体型だった。
 ただ、この日も武田さんがコールした練習台チームには少々手こずった形跡がある。関学としてはせめて1TDでもと願ったが、立大は難なくしのいでシャットアウト勝ちを飾った。


いつの日この立大を倒せるのか。関学高校の3年生は、来期以降のライバルが堂々と戦うさまを、スタンドから眺め続けた。少なくともバックスはQBと両HBはいなくなる。ラインも両エンドは卒業だ。
 だが、センターと、あの体の大きい両タックルは来年も残る。バックスはFB以外が一新される。だが先発メンバーに代わって出てきた連中は一軍と少しも変わらない。並大抵のことでは互角の勝負は難しい。私たちにとって尽きることのない実力検討、戦力分析の種だった。

【写真】1952年の第7回甲子園ボウル高校の部で2連覇を果たした関学高