「シニアアドバイザー」などとカタカナで言われると、古い人間はそれがどういう役職なのかよくわからなくてうろうろする。


 しかし、あの水野彌一さんが、立大に乞われて同校アメリカンフットボール部の要職に就くことになったのだ、と言われると、これは今年最大のニュースではないかと思う。日大の内田正人監督退任の報道と比べても、重い。
 とりあえず水野さんについては、これまでの実績に見合った成果をと願って、ここで話を打ち切る。そしてこの先、本稿では立大を取り上げる。中身は無論、水野さんを迎えた立大を論評するものではなく、今から65年前の立大初優勝の話であることは、改めて言うまでもあるまい。


 昭和一桁生まれの年寄りにとって、立大というチームは豊かな歴史に彩られ、栄光に満ちた強豪だった。
 偶然、2月ごろの「TURNOVER」でそろそろ第6回、第7回の甲子園ボウルの話を、と今後の段取りを申し上げたばかりだったのも、これまた何かの縁を感じる。第6回大会の私たち高校チームの話を書いたのも、その前ぶれだった。


 さて、戦後の関東リーグは慶大が終始リードした。これを明大と早大が追う形で推移していた。そこへ立大がいきなり登場してきた。東ではそれほど突然ではなかったのかもしれない。
 だが、当時の通信、交通手段は現在世にあるものとは決定的に異なっていた。西から見ると、かなり唐突に感じたのが事実である。


 立大は間違いなく日本のフットボール発祥の「オリジナル3校」の一つである。しかし1934年(昭和9年)=まったく私事だが、私の誕生年でもある=の最初のリーグ戦は、明大2勝、早大1勝1敗で、立大は2敗の最下位だった。
 関東リーグは、翌35年に慶大と法大が加わったあと、40年に日大が加盟して6大学となり、43年に戦時のため中止を命じられるまで活動を続けた。


 この間立大はというと、35年3位。36年は慶大と並んで4位。37年は慶大と引き分けて同率3位。38、39年と5位に沈み、40年は新加入の日大と引き分けて最下位の6位。41年も勝ち星なくまた6位。42年は総当たりのリーグ戦ではなかったが、法大に勝って5年ぶりの白星を記録した。順位は1勝1敗1分けの4位だった。


 戦前の西は35年(昭和10年)に関大が名乗りを上げたものの、あとが続かず、40年に同大、41年に関学と3校になったところでリーグ戦の中止を命じられた。
 だが、戦後は関西が一歩早く復活。46年(昭和21年)からリーグ戦を開始した。翌年の4月、甲子園ボウルが始まり、慶大と同大が顔を合わせた。


 47年には関東では6校がそろって復活。西では京大の加盟もあって4校のリーグ戦がスタートした。
 48年の元日には第2回甲子園ボウルが開かれ、関大と明大が激突した話は先にTURNOVERにも書いた。肝心の立大は復活1年目のリーグ戦は早大に勝って1勝4敗、法大と5位に並んだ。以後48年は2勝3敗で4位。49年は3勝2敗で3位。50年も2勝2敗1分けで明大と3位の座を分け合あった。


 このチームが51年(昭和26年)、突然関東リーグの1位に躍り出た。答えをご存知の方は多い。ドナルド・T・オークス監督の力によってである。


 日本アメリカンフットボール五十年史によると、オークスさんは49年3月、米国聖公会から牧師として系列の立大へ派遣され、神学、キリスト教論理学を担当した。
 出身校はダートマス大で、在学中はフットボール、バスケットボール、野球などの選手として活躍。日本ではこのどれかを教えたいという望みがあったという。結局はフットボールの監督として立大を指導するわけだが、基本を重視した厳しい練習を課したという。


 陣容は、攻撃がノートルダム大のTフォーメーション。守備は6―2全盛の時代に5―3を採用して他校をあわてさせた。
 訓練の行き届いたスピード豊かなT攻撃が、各大学を一気にTの採用へと向かわせた。守りも堅かった。


 選手ではQB野村正憲の名が高く、「ノートルダムTの申し子」とまで言われ、他校から一目置かれる存在だった。
 左のHB中沢貞夫がエースで、ラインではのちに東京中日の記者となる宮川一郎が有名だった。この時2年生ながらセンターの正位置を占めた鏑木吉雄は、同じポジションの私から見れば、まさしく仰ぎ見る存在だった。
 オークス監督が、日本のフットボールの進歩に計り知れない成果を残した、と言われているのは、あらゆる意味で正しい。


 さて第6回甲子園ボウルは12月9日午後2時5分に始まった。この日サイドラインには3本のマイクが並んだ。画期的だった。NHK第2と新日本放送(現毎日放送)の2局がラジオで実況中継、朝日放送は収録だった。


 立大守備陣は5―3に代えて5―4を持ち出した。これが的中。この試合で関学が投げたパス12本の内5本を奪い取ったといわれている。
 ランでもシングルウイングを見事に抑え込んだ。とりわけ猛威を振るったエンドラン、オフタックルを封じ込めたのは大きかった。


 一方、立大のノートルダムTも効果的だった。第1Qのなかばに、ランプレーで先制のTD。第2Qにもエースの中沢が走ってTDを加え、第3QにはQB野村がEの宮川へTDパスを決めて19―0とリードした。


 展開はかなり一方的である。しかし関学は耐えた。手詰まりを起こしながら、あきらめてもいなかった。勝負事はあきらめた時点で終わりとなる。
 第3Qの終盤、まずシングルウイングで立大陣へ迫り、LH鈴木博久、FB高橋治男が相次いで突進。最後に「右40」(右へ展開する形を関学ではこう呼んだ。左へシングルウイングの翼を傾けると左40)からRE二宮哲夫のリバースプレーでTDを奪った。


 第4QにはQB武田建がリードする若手の「T」チームに切り替え、HB中川逸良のTDを生んだ。TFPはいずれも武田がキックで決めた。14―19、差は5点である。


 後年、建ちゃんからこのときの話を聞いたことがある。その記憶は鮮明だった。武田氏の著書「フットボールクレイジー」にも詳しい。
 1年生のHB長手功に3度ボールを持たせて中央を突き、かなりの距離を稼ぎ出させた後、続く四つ目のプレーで長手へフェイク。このおとりが大成功で、中川が渡された球を持ってオフタックルを突きそのまま独走、見事エンドゾーンへ駆け込んだという。


 この後逆転を狙って関学が演じたプレーは、甲子園ボウル史上に残るビッグプレーだった。しかし、勝利の女神は立大にほほ笑んだ。
 使ったプレーは、シングルウイングからの「伝統の」ダブルリバースパス。左40からRH段中貞三が左へ走りながらLH鈴木へリバース、さらに鈴木はREに二宮哲夫へハンドオフ。二宮は相手陣深く入り込んだLE今井信吉へロングパスを投げた。ボールは見事、今井の腕に納まったものの、立大DBの必死のタックルに、ゴールラインへあと3ヤード届かず涙をのんだ。


 立大の初優勝は東西のフットボール界にいろいろな意味でいい刺激を与えた。それに何よりも最後までファンを引き付けたいい試合だったことも付け加えたい。

【写真】