前回、攻守交代がある球技、というのがアメリカンフットボールの特徴という話を書いた。そこでもう一つ、自由な選手交代もこの球技の特徴、という話をしておきたいと思う。


 幾つかのフットボール、例えばアソシエーション・フットボール(サッカー)や、ラグビーフットボールなどは、選手交代について極めて厳格なルールを持っていて、試合中に交代できる選手の数は極端に限られているのはご承知の通りだ。


 これに比べ、わがアメリカンフットボールは決まりきった制限さえ守れば、自由に何人でも、そう、チーム全部をそっくり入れ替えることもできる。
 さらに、もう一つ。サッカー、ラグビーはもとより、野球でさえも、いったんベンチへ下がった選手は試合には二度と復帰できない仕組みになっているが、アメリカンフットボールでは、交代してベンチへ下がった選手でも、その後何度でもフィールドへ、ゲームの場へ戻ることができる、という決定的な相違がある。


 スポーツ記者として数多くのゲームを観戦し、多くの競技の文献をひも解いてきたが、ここまでフリーな、ネットを挟まないで戦う球技は、ほかにバスケットボールを知るぐらいである。


 今年のセンバツ高校野球は大詰め。アルプススタンドにはベンチ入りできなかった選手たちが、ユニホームを着て仲間に声援を送るもうおなじみの姿が見られるが、アメリカンフットボールではまずありえない光景だ。
 野球でベンチ入りを許されるのは、大会やリーグの組織によって異なるが、高校野球などでは、10人前後といったところだろう。


 フットボールもその昔、11人のレギュラーメンバーが、攻守に出ずっぱりだった時代があった。しかし今は違う。攻撃チーム11人、守備チーム11人、それにパンター、プレースキッカー、ロングスナッパー、ホールダー、リターナーらを加えたキッキングチームと数えてくると、ざっと30人を超える。
 「先発メンバー」もしくは「レギュラーメンバー」が必要になってくる。それぞれに控えを準備すると60人の大所帯だ。この大所帯の選手たちが、入れ代わり立ち代わりフィールドとベンチを往復するさまは「活気」に富む。


 かつて専門誌の「タッチダウン」で米国のカレッジを受け持っていたころ、全米大学体育協会(NCAA)で決めていた登録選手数とかベンチ入りの選手数などを一生懸命調べては、誌面で紹介したものだったが、現在はどうなっているのだろうか。


 現役当時、試合をする場所は西宮球技場だった。西側に高い土盛りのスタンドがあった。その向こうは道を隔てて阪急電車の今津線。3両編成のあずき色の電車が走っているのが見えた。
 東側は管理棟、本部や記者席があった。北側はロッカー。木製の大きなスコアボードがあった。サッカーの国際試合などもよく行われたが、電化はされておらず、得点の掲示は係員がやっていた。南側は畑を隔てて山陽本線が走っていた。


 1953年(昭和28年)、私は大学へ進んだ。関学には幸いなことに、3軍ができる程度の選手数がいた。
 よそでは同大、関大が、多くはないがそれほど不自然ではない人数をそろえていた。しかしリーグ戦の多くの試合はベンチが閑散とし、どこか寂しげで盛り上がりを欠くことが多かった。


 この年は立命が加盟したばかりで、各校に大量点を献上していた。問題は京大で53年と翌54年は人数がそろわず棄権する試合が続いていた。
私たちも試合できなかった方である。その京大と初めて試合ができたのは、私たちが3年生になった55年だった。場所は京都・北白川の農学部の奥にある競技場だった。スコアは82―0だったが、当たりの強いチームという印象が残っている。


 56年も同じ場所で対戦しているが、私は出ていない。就活だった。この最終学年には、幾つかマスコミを受けた。今ほど大騒ぎはしていなかった時代である。
 その中で東京新聞に拾っていただいた。面接で「ほう、珍しいスポーツをやっていたんだね」と言われた。うなずくと、その方が周囲に軽く目配せしたのが記憶に鮮明である。
 57年から運動部一本の記者生活がスタートした。少しでもフットボール普及発展の役に立てれば、などとも考えた。


 マスコミに憧れたのは当然、米田満さんの影響が大きい。神戸新聞に正式の記者として在籍されたのは、お書きになったものを見ると1年間だけで、あとは母校関学に勤めながらの寄稿だったようだが、文末の署名を見るたびに憧れを覚えた。
 ちなみにお使いになっていた「河内新六」はノートルダム大の名コーチ「ヌート・ロックニ―」にあやかったものである。


 なお当時のこの職種の先輩としては、明大の全日本級タックルで日刊スポーツの井上柳一さん、立大の甲子園ボウル連覇の原動力で東京中日のエンドの宮川一郎さん、ハワイ生まれの日系人で、戦前戦後を通じて、フットボールの普及に尽力された花岡惇さんも、この頃は報知新聞に記事を寄せておられた。
 上京した時はこうした方々が、まるでわがことのように喜び、連日のように歓迎していただいた。忘れられない大切な思い出である。


 多くの競技に親しんだ。それが商売だからやむを得ない。しかし、フットボールの出番はとんとめぐってこない。せいぜい元日のライスボウル程度で、それもリードにクオーターごとの成績が付けば上出来で、ほとんどは「簡単に」「短く」で済まされた。


 62年から共同通信へ移ったが、事態は同じである。しかし、転勤で東西を往復しているうちに、フットボール界も少しずつ事態の改善を見て、70年(昭和45年)には専門誌「タッチダウン」が生まれた。画期的な出来事だった。


 慶大の名RBとして日大、関学ばかりの全日本チームに抜擢され、初のハワイ遠征へ赴き、当時の仲間と「タッチダウン」創刊を果たした、オーナーの後藤完夫さんとお近づきになって、米国のカレッジ事情を担当した。
 シーズンオフには読み物を手掛けた「夜話」と称する2ページの話で、攻守が交代する珍しい球技であること、何か一つでも得意なものがあれば、フットボールには必ず役に立つポジションがあることなど、普及、発展に資するであろうと思われる話題を文字にした。


 大きくて、力が強くて、足が速くて、球扱いが器用でといった選手ばかりで成り立っているんじゃないんですよ。
 ボールを受けるのはへたくそでも、蹴るのだけは上手という人はキッカーとして役立ちますよ、といった調子で、右足の指がないNFLのトム・デンプシー選手の話などを持ち出して、フットボールへいらっしゃいと誘うのが眼目だった。


 時が過ぎ去った。ベンチに2、3人が残り、監督を囲んで頭を寄せ合う時代を目撃してきた八十翁にとって、スタメンの選手が出て行った後も大勢の選手がベンチエリアに広がる今日の姿は、まるで夢のようである。


 100人、150人はおろか200人を超す幾つかのチームは、ベンチに残す選手を選別するのが一仕事である。無論まだまだ選手獲得に尽力せねばならないチームも多い。
 そこで申し上げる。中学、高校の若いスポーツ好きの皆さん、自分の「十八番(おはこ)」は何かを十分見極めた上で、フットボールの世界へいらっしゃい。必ず自分の居場所と試合への出場機会が巡ってきますよ。

【写真】1956年、丹生さんが関学4年時のリーグ戦。雨が降るとグラウンドは泥田のようだった