神吉(かんき)さんの、ブロッキングに重点を置いた指導に、素直に応じた私たちのチームは、少し口幅ったいのだが、なかなかのものだったように思う。
 「これは必要な練習」と、即座に受け入れた佐藤市郎主将の判断は正しかったし、その率先垂範ぶりに「よしやろう」と、すぐさま協力態勢に入ったチームの主力、つまり私たち2年生も立派だった。


 港で「もう来ないでくださーい」と、冗談口をたたいて神吉さんを見送りはしたが、ブロッキングの重要性はこの合宿以降、一気にチームに浸透した。
 前回もその効果のほどを少し述べた。だが、この年の秋の後半、デイリースポーツ紙に米田満さんがお書きになった一文は、その実態を最も率直に示している。


 わき道にそれる。当時の高校タッチフットボールは、西では春に「全関西高校大会」と称するトーナメントが一つ。秋には「近畿総合体育大会」という、いろいろな競技の府県対抗大会があり、その一つとしてタッチフットボールが行われていた。
 これが終わった後、甲子園での東西の優勝校対決を頂点とする、選手権と称するトーナメント大会が続いていた。米田さんがお書きになった記事は、この秋後半の大会について予想されたものである。


 自らが指導、監督をするチームについて、客観的に述べることなど至難の業だが、このときの米田さんは、開き直っておられたのではないかと思う。えらそうに付け加えさせていただくと、新聞記者として誠に正直な記事だった。
 その大会の勢力分布図、その中でも抜きんでた実力を持つ関学高の力と、それを裏付ける理由を的確にお書きになったのが誠に興味深い。仮にこの年の関学高の実力を遠慮しながら表現されたら、嘘くさくなるのが関の山である。そうした「嘘」を米田さんはきっぱりと避けた。


 予想の中心には、こういう言葉が並んでいる。
 「それにこのチームは全員が強烈なブロッキングを惜しみなく敢行する唯一のチームである。ブロッキングがフットボールの勝敗にどれほど重要ものであるか分かり切ったことであるのに、それを怠る選手はあまりにも多い。この点に関する限り大学チーム以上であり、このブロッキングだけで優勝候補随一に挙げられてよかろう」


 1951年(昭和26年)春、関学高はチーム創設以来、初めてのタイトルを手にした。催しは全関西高校大会。西宮市民運動場での決勝の相手は、米軍の指導で生まれた、関西のオリジナル3校の一つ奈良高だったが、私たちはあっさり、18―0とシャットアウト勝ちした。
 無論、淡路島志筑のブロッキング合宿前である。ブロッキングを「敢行」するチームとなった秋には、まず近畿大会の兵庫代表として中百舌鳥で準決勝、決勝のダブルヘッダーに臨み、滋賀の愛知高を19―0で下した後、豊中高に25―0と完封勝ちして初優勝した。


 このころは、現在のような整然とした高校大会は行われていなかった。甲子園ボウルで東西のナンバーワン高校の対戦を組み、これを高校王座戦として認めていた。無論、まだタッチフットボールであるのは念を押すまでもあるまい。
 ともかく新制高校誕生以前は、旧制中学の、それも関西同士の試合が大学の試合の前座として行われた。


 1947年(昭和22年)4月の第1回甲子園ボウルでは、オリジナル3校の内の2校が出場。豊中中が14―0で池田中に勝った。1948年(昭和23年)元日に開かれた第2回甲子園ボウルでは、奈良中が6―0で豊中中を制している。


 新しい学制がようやく整い始めた1949年(昭和24年)1月の第3回甲子園ボウルから、東西の新制高校の王座戦に切り替わった。
 このへんの旧制中学、新制高校の仕分け。大学の本科と予科、高等商業や高等工業、さらに各種の専門学校の使い分けなど、とても一筋縄では扱えない。くどくなるが、慎重に慎重にと年代をカウントし、回数を数え直してご紹介している。


 私自身で言えば、大日本帝国が小学校を国民学校と言い換えた年、つまり昭和16年に学齢に達した。昭和22年3月まで、その国民学校のみで学んだ子供である。
 妙な言い方になるが、国民学校で勉強はしたものの、小学校では一時間たりとも勉強しなかった世代で、この辺のことを字にするときは、十分注意していただきたいものだ、と考える爺さんなのだ。
 同じことは旧制中学からさらに先へ進まれた方々にも言えることで、「予科」「高商」など、現在では大学扱いの各学科も、それなりに慎重に扱う必要がある。


 東西の高校の王座戦は、1949年1月の第3回甲子園ボウルから始まった。この「第1回高校タッチフットボール王座決定戦」は池田高が27―6で麻布高を破り、記念すべき初代チャンピオンとなっている。
 1949年12月の第4回甲子園ボウルで行われたのは、第2回の東西高校王座戦。これは慶応高が6―0で奈良高を下した。1950年12月の第5回甲子園ボウルでは、池田高が15―6と慶応高に勝って2年ぶり2度目の王座に就いた。


 1951年の第6回甲子園ボウルでの東西高校王座戦へ、私たちは米田さんの展望記事そのままに、しゃにむに突っ走った。
 大会は予選と、予選を突破したチームの勝ち抜き戦で構成されていた。関西の協会は東は滋賀県、西は山口県までを統括していたが、遠方から会場地まで夜行列車などで出てくるチームに、できる限り試合をして帰れるよう、組み合わせなどの配慮に努めたものである。


 その結果、このような予選が生まれていた。まずチームのある府県を「滋賀・京都」「大阪・奈良・兵庫」「広島・山口」と三つに分ける。3府県のグループからは2校。他は1校が選ばれる。この4校が準決勝、決勝と勝ち抜き戦を行う。


 私たちは10月半ば、奈良高を18―0と完封して初戦を飾った。少し日程が空いたので、練習試合を組み、池田高を32―7で下した。
 11月には豊中高を38―0と退けて全勝で「予選」を終え、トーナメント準決勝では京都の日吉高に32―2と快勝した。


 決勝の相手は広島の崇徳高。大阪の浪速高にプレーオフで競り勝っていた。しかし試合は32―0とシャットアウト勝ちし、私たちは難なく甲子園ボウル出場を決めた。
 この時期、関学はラインの重鎮でガードの木谷直行、バックスでは知将のQB鈴木智之といった面々を中心に、切れ目なく次の試合へのスカウティングに出かけていたことにも触れておきたい。


 立大のオークス監督が関学の秋のリーグ戦を、本場仕込みのスカウティングで分析し、甲子園ボウルを第6、7回と連覇する一因となった話はよく知られているが、それと軌を一にして高校生が拙いながらも次の相手への準備をしていたことはあまり知られてはいない。


 木谷や鈴木が存命のうちに書き残しておかねば、やがてはうわさ話の中へ消えてしまう。関西ではさほど効果があったとは思えないが、慶応高の試合に出かけた二人がもたらした情報は値打ちがあった。
 ここで書くと長くなりすぎるので、次回のお約束にしたいが、当時の関学高が抜け目ないチームだったのは確かである。

【写真】OB座談会の模様を伝えるKGファイターズの機関誌「FIGHT ON」