今では1月7日を過ぎると、もう松飾は取り払われてしまうが、昔は大体15日までが、松の内だった。松が明けると成人の日となって、正月の行事は全部おしまいとなったが、今では成人の日が第2月曜日とやらにくっ付いて、お正月から「駆け足」「駆け足」とせかされているようで、どうも落ち着かない。


 先日、ぼんやりテレビを眺めていて、そうだな、これがあったなと思った。神戸生まれのせいもあって、今でも胸が痛む。阪神淡路大震災を振り返る番組である。
 毎年のように思い出し、今年は21年目だそうだ。ということは同時に、あの大切なOBを21回回顧してきたことにもなる。


 以前、このコラムで書いた。淡路島志筑での、高校の夏合宿に米田満さんと同学年の、神吉(かんき)康彦さんがコーチに来られて、私どもにフットボールの基礎練習をみっちりと叩き込み、歴史に残る高校チームの連勝記録の土台を作ってくださった。そのエピソードを思い出していただければありがたい。


 「ヨネ(米田さん)に頼まれてきた。君らはええチームやと聞かされとった。ところがなんや、あのブロッキングは。皆立っとるやないか」
 ちょうど練習終盤のキックオフ練習の時に、合宿で借りていた兵庫県立津名高校のグラウンドへ到着、というのがまずかった。


 その日の日没から翌日の夕刻の船の時間まで、ブロッキングに次ぐブロッキングの練習が繰り広げられた。単なるブロッキングの練習が、こんなにもバリエ―ションがあるのかとも感じた。
 丸一日、みっちりと絞られ浜へ見送りに出た高校生は、声が届かなくなるころを見計らって「もう来ないでくれ」「合宿へは来ないでー」と叫んでいたが、内心は皆「この練習を続けていけば、間違いなくチームが変わる」と確信していた。


 事実、秋からの関学高校は一皮も二皮も向けた強力なチームとして関西に君臨することになった。
この恩人ご夫妻が亡くなられたのがあの大震災だった。
 関学のフットボール部OBの中で、ただお一人、災害の直撃を受ける不運に見舞われただけに、地震とブロッキングというと、私の中では切っても切れないつながりができてしまったようである。


 この年は、大学と高校がそれぞれ別の場所で合宿をした最初の年だった。神吉さんに指導を頼んだ米田さんは菅平にいた。
 それまで、といっても始まったばかりの関学フットボールの夏合宿は、とりわけ高校は、大学と一緒にやるしか方法がなかった。この前の年、1950年(昭和25年)は、「Tフォーメーション」研修のために山口で行われた。


 高校1年生の私たちの学年7人も参加。帰宅の日、大阪駅で超大型のジェーン台風に出くわした思い出がある。その前年、1949年(24年)の松山合宿は、私たちはまだ中学生。1948年(23年)は津だったそうである。


 高等部の顧問を務めてくださった西尾康三先生の話は昨年書いた。高校チームが大学と一緒に
合宿するのは技量の習得という点では申し分なかったものの、練習終了後の「合宿」の私生活面を考えるとき、必ずしも望ましい環境だとは思っておられなかった。
 この1951年(昭和26年)の志筑合宿は、その意味で先生の希望に添った高、大の分離だった。
それに、合宿参加人数の面でも高校、大学を合わせて一か所で受け入れるのは、このころから難しくなり始めていた。


 この最初の高校単独合宿は、地元の日本基督教団志筑教会の宿泊設備に寝泊まりし、練習は先に書いた通り、夏休みの津名高校グラウンドで行われた。
 淡路島名産の玉ねぎを使った料理が教会の厨房で作られた。特にカレーライスが連日食卓をにぎわしたことを記憶している。


 翌1952年(昭和27年)は赤穂の手前。坂越(さこし)という海のきれいな土地で行われた。大学は前年と同様菅平だった。地元の公民館へ泊まり、坂越中学(小学校だったかもしれぬ)のグラウンドを借りた練習は充実していた。この年、私たちは難なく甲子園ボウル2連覇を果たした。


 このころは全国規模の高校の選手権大会はまだ生まれておらず、大学のゲームの前座として東西の高校優勝校対決が行われている程度で、この甲子園ボウルでの試合が高校の王座戦だった。
 一方、大学は関学が4年連続で出場したものの、オークス監督が率いる立教大学に歯が立たず、連敗を喫した。


 根拠も何もないのだが、このころ関学の関係者やOBの間で、まことしやかに語られてきた話がある。「やっぱり山の字が付いとらんとあかんなあ」
 夏合宿の地名のことである。わずか4、5年のことだが、松山、山口は「山」の字が付き、菅平には「山」がなかった。1953年(昭和28年)の夏合宿は「山の字がついたところを探さねば」と結構大まじめに語られていた記憶がある。


 というわけで、私たちが大学1年の時に赴いたのは岡山県の津山市だった。姫路から姫新線で当時としては約4時間。岡山県を代表する吉井川の北岸に位置する町で、合宿はその東のはずれの学校で練習し、近くの神社の集会所に寝泊まりした。
 昼間は盆地のことで風もなくひたすら暑かったが、朝晩はけっこう涼しかった。


 必ずしも「山」のせいではない。主将の太瀬重信さんをはじめ、伊東敏さん、大道伸一郎さんら力のあるラインが奮闘した。本場のノウハウを細身の体いっぱいに詰め込んだ知将武田建さんの精密なリードは忘れられない。
 そして、中川逸良さんと谷川福三郎さんが見事な走力を見せる。こうして関学は第8回甲子園ボウルであの立大を抑え込んだ。


 今振り返ってみれば、結構細かいことにこだわる部だったことに思いがいたる。翌1954年(昭和29年)は和歌山へ出掛けた。暑い土地だった。そもそも夏の大阪は暑い。その大阪よりもずっと南である。暑くないわけがない。
 名門桐蔭高校のグラウンドを借り、近くの改装中の旅館に起居しての10日間は人生で最も暑い夏だった。


 これも前に書いたが、この合宿では、私たち2年生と最上級生とが、部のありようについて深く踏み込んだ話し合いを展開している。なぜ、そのように突き詰めた話を始めてしまったのか、これはもうほとんど暑さのせいだったかもしれない。
 しかしお互いにいうべきことを口にした後は、どちらも淡々と秋のシーズンに臨んだ。この秋ほど、上級生と下級生が息の合った練習と試合を繰り広げた年はない。


 翌1955年(昭和30年)の合宿は中国山地の真ん中の勝山だった。私はただ一つこの合宿を知らない。出発前夜、恐るべき腹痛と吐き気に見舞われ、救急車で「豊中病院」へ担ぎ込まれたせいである。
 病名は「急性虫垂炎」。要するに盲腸炎である。出発前だったのを今でも幸運だったと思っている。


 私にとって最後の夏合宿は福知山だった。転々とし続けた関学の合宿地選定も、この辺りから少し落ち着き、かなり長い間この福知山で鍛えたものである。合宿といえばひたすら暑いところばかりを追いかけることもあれば、都会地の炎暑から多少は逃れることがあってもいい、とも思う。


 福知山はその後者だった。町の真ん中に明智光秀を祀る御霊神社という社があり、その付属設備の御霊会館で寝泊まりした。
 古いながらも木造3階建てで、がっしりした造りの建物だった。いろいろな意味で最も楽な合宿だった。


 もう一度あの炎暑の下で練習しようとは思わぬが、その一コマ一コマがどれほど甘美な香りを放ってこの老人へ迫ってくることか。これらはむろん、合宿を体験したからこそである。

【写真】阪神大震災から21年となった神戸市街。追悼行事が続く東遊園地に「未来 1・17」の文字が浮かび上がる