関学アメリカンフットボール部前OB会長の奥井常夫さんに言わせると、ここ最近の甲子園ボウルを中心にした「TURNOVER」は、とにかく「大昔物語」なんだそうである。
 書いている本人は、つい先だってのことぐらいに考えていたが、同会の東京支部幹事会で同じようなことを言われて、認識を改めた。


 だったとしたら、注意しなければならないことがある。人間、これをやるから世にデマ、虚言のたぐいがはびこることになる。「思い込み」である。この職業を選んだときから、私は先輩諸氏から絶え間なく「確認しろ。思い込みで書くな」と口を酸っぱくして忠告され続けた。
 新聞記者の常識である以上、むしろ当然の忠告である。字引には「思い込むこと。固く信じて疑わぬこと」とある。


 だったらいいじゃないか。何がいけないの、と反論されそうなので、改めて動詞形の「思い込む」に置き換えてもいい。こちらの方は三つほど意味があるが、広辞苑にはそのうちの③に「すっかり信じてしまう」というのがある。すっかり、信じて、確認しないで記事にする、その怖さは夢に出てきそうである。


 例によって、余談だらけの書き出しと相成った。実は春の定期戦で、その始まりの場所を私が長い間、思い違いしていたのを自ら発見したのである。正確な昔話を書いて安心し、納得しようという試みに読者を巻き込もう、という魂胆なのである。
 仮に、思い違いをそのまま書いても、多分それを指摘してくれる方はもうほとんどおられまい。
 今春、長い間続けてきたその明大との定期戦が流れた。今年だけのことと思うが、OB会を仕切る人たちの中で、ちょっと歯切れの悪い説明をされる方がおられたので、少し心配になった。関学にとってこの定期戦の始まりこそ、王座獲得への重要なステップの一つだったと、当時この試合をなさった方々、あるいは第2回を戦った方々が、口をそろええて言っておられるからである。


 第1回の「明関定期戦」は、1948年(昭和23年)の1月25日に、甲子園球場で行われた。以前甲子園ボウルについて書いたが、この年、元日に第2回甲子園ボウルが行われた直後である。
 関大に0―6で敗れた明大にしてみれば、1カ月のうちに立て続けに甲子園で関西のチームと試合をすることになるとは、思っても見なかったであろう。


 渇望していた定期戦だった。1941年(昭和16年)に、関西では3番目、全国では9番目に生まれた若いチーム関学としては、当時関西で圧倒的な強さ、たくましさを誇った関大を倒すべく、チーム強化には全力を注いでいた。
 10番目の京大が産声を上げたばかりの時代で、関西のチームだけでは飛躍のきっかけとするには不十分だった。レベルの高いチームが競り合う東の大学の胸を借りる。これが目的だった。


 明大は日本に学生リーグが誕生したときの早大、立大と並ぶ、オリジナル3チームの一つである。戦争が終わると、同校OBで日系の花岡惇さんを指導者に迎え、いち早く強いチームを作り上げ、1947年(昭和22年)の戦後最初のリーグ戦を4勝1分けで制し、第2回甲子園ボウルに出場した。
 FBの内山孝さんは大柄で、日本を代表するRBとしてその中央突破の威力は群を抜いていた。QB小川敏男さんやLH斉藤耕一さんのプレーも、範にする存在だった。


 このへんが強豪明大を選んだ理由だったが、もう一つ花岡さんの存在も大いに関係していた。花岡さんは戦前、大学卒業後、勤務先の関西で関大をコーチされた。
 このとき、関学の中心選手で、戦後監督を務めた井床国夫さんを、あれこれと指導されたらしい。日本アメリカンフットボール五十年史には、フットボール発展のためなら、骨身を惜しまず協力する花岡さんの横顔が紹介されているが、このへんのお人柄が多くの「弟子」を周辺に引き寄せたに違いあるまい。


 関学はその縁を糸口に、マネジャーの橘高紀雄さんが話を詰めて、試合の実現にこぎつけた。
 当時の交通事情、食糧事情、宿泊事情どれをとっても大ごとである。しかし、どのように話を運んだのか、1か月もたたないうちに再び甲子園に戻ってきた明大のその胸を、関学は存分に借りることができた。
 時期が時期だけに寒かったようだが、前夜の小雨で甲子園球場外野の芝は上々のコンディションだったという。関学は好スタートを切り、第1Qに幸先よく6点を先取。第2Qに6点を返されて後半に勝負を持ち込んだ。


 そのままで迎えた第4Q、明大は経験の浅い関学の意表を突き、トリックパントの奇策を的中させた。この好機に大黒柱内山さんが猛烈な突進力を発揮。勝ち越しのTDを挙げて、13―6で関学を退けた。

 さすがこのあたりは一日の長があった。一方関学は敗れはしたが、ここまで食い下がれるとは思っていなかったようで、米田さんはのちに「覚悟の上の敗戦ではあったが、予想以上の善戦は、前途に一筋の光明を見出したものの如く、来るべき春のシーズンを待ち望む気持ちは従来になく明るいものであった」と締めくくっている。


 言外に大いに自信をつけたさまが、あふれている。そして次のシーズン、つまりこの年の春、関学は関大から初めての白星を挙げた。間違いなくこの定期戦から得た自信の賜物だった。
 秋に関大と2試合の死闘を繰り広げた末、タイトルを逃した後関学は、年明けの1949年(昭和24年)1月22日に名古屋で第2回の明大との定期戦を行った。私が「思い込み」をしていたのはこの試合である。秋のリーグ戦で関大を倒し、甲子園ボウルへの出場権を獲得し、慶大を倒して初優勝。日本一となったその礎には、この名古屋での快勝があった、とここまではいいのである。問題は私がこの定期戦をずーっと第1回、と思い込んでいたことにある。


 あまり書くと、今度は読者を混乱させかねないので、これだけにする。 ともかく関学の上昇機運は、この名古屋での明大との第2回定期戦の快勝に起因している。これは間違いない。


 関学はこれまで、何人もの優れたQBを輩出してきた。シングルウイングの米田さん、藤井浩月さん。「T」では武田建さん、井上周さんを経て、私の同期の鈴木智之さんへつながっていく。歴代のQBは間違いなく一流だった。
 その中でもQBらしいQBといえば、やはり真っ先に鈴木さんに指を折らなくてはなるまい。


 関学のフットボールの「大昔」時代、中央芝生がその練習場だったことは、これまで何度か書いた。関学中学部のヤンチャ坊主の中で、下校途中にここへ立ち寄り、大学生と「タメ口」に近いやり取りをする中学生が生まれてきた。
 その中の最有力中学生が鈴木さんだった。この中学生は絶えず試合見物に出かけ、ベンチの片隅にマスコット扱いで入れてもらうことがあった。鈴木さんは間違いなく、この第2回明大定期戦に同行し、強豪明大から挙げた貴重な勝ち星と、その事実に高ぶる大学チームの異常なまでの興奮を中学の部の中へ、そのまま持込んだ。


 「すごかった」と勝利を語り「これで関学は変わったんや」と言い「そのきっかけやった」と念を押した。
 つまり、この試合が第1回だったのか第2回だったのかはどちらでもよかった。関学にとってこの上なく大事な試合、大事な白星だったことを語れば、それで十分だった、と言える。
 正直言うと純朴な少年だった私は、この鈴木さんの「帰朝報告」にただただ感心するばかりで、そのまま齢八十を重ねた。そして思い込んだ。関学にとって明大との定期戦は大いに意義あるものだったと。


 その結果、甲子園での第1回定期戦はどこかへ飛んでいった。今回明関定期戦について書こうと思い立ち、細部を洗ってゆくうちに「あ、名古屋の試合は第2回やったんや」と気が付いた次第である。
 第2回定期戦は名古屋の瑞穂競技場で行われた。関学は大阪の上本町六丁目、俗に上六といったターミナルから、近鉄電車で名古屋へ向かったが、電車の事故などで到着は試合開始ぎりぎりだったそうだ。


 しかし試合ではこんなハンデを跳ね返した。強風下のゲームだったというが、エースRBの徳永義雄さんのパントがさえ渡り、常に地域的優位を保ちながら試合を進め、19―6で快勝した。


 第3回の定期戦は、1シーズン飛ばして1950年(昭和25年)1月20日に、初めて東京で開かれた。場所は後楽園競輪場。周囲をコンクリートの走路で囲まれ、その内側の芝生がちょうどフットボールのフィールドにピタリだった。
 第5回甲子園ボウルで慶大に2連勝した関学だったが、シングルウイングバックで押し通すのか、それとも「T」に切り替えるのか、ちょうど岐路に差し掛かっていた。


 上京した宿舎で、カンカンガクガクの議論が始まったのは1月19日の夜だった。激した議論は明け方まで続いたという。
 「もう寝んと。きょう試合やで」でようやく議論は打ち切られたそうだが、その結果は19―33という負け戦のスコアとなって表れている。
 「あれだけ激しい言い合いになっても、手え出さんのがウチやな」。元協会専務理事の古川明さんは、65年前のことをこう懐かしんだ。

【写真】関学のQBとして活躍し、その後監督としても手腕を発揮した武田建さん(後列右端)