堅苦しい話はしない、と自らを戒めながらパソコンに向かっているが、テーマとか取り上げる人物によってはそうもいかないのが世の常である。
 ましてや八十の爺さまの話だ。どうしてもテーマは同時代の方々が中心になるし、当時の試合、当時のプレー、当時の練習方法からそう遠くへ踏み出せないのも仕方がない。


 このところ1950年(昭和25年)の関学の山口合宿の周辺をうろうろしているが、このころはやはり関学にとって、大変重要な時期で、書き出した以上はこのあたりをいい加減にしてほかの話に移りたくない、という気持ちが次第に強くなってきた。


 難しい問題ではない。要するに当時姿を現し、力をつけ、広がりを見せ始めたTフォーメーションに対してどう向き合い、どう理解し、どう取り入れ、どう処理するか等々を自分たちで悩み、考え抜いた時代だったということなのである。


 そこには人間的なこだわりや、感情や、好き嫌いがたっぷりと入っていた。問題に真正面から立ち向かっている人たちは、大学の最上級生の米田満さんや井床由夫さん花谷雄弘さんらと、その2年下の関学黄金時代をもたらした池田、豊中、奈良の3高校のエースであり、大黒柱であった方々である。


 課題が山ほどあったわけではない。「T」をどうすれば止めることができるかだった。以前にご紹介した早大戦の大敗も、原因は一つ。「T」のランに守備陣が無力過ぎたからにほかならない。
 当時私は16歳。高校1年生だった。大学生の近くで練習していた。さまざまなディフェンスをああでもない、こうでもないと一つずつ確かめながら積み重ねていく。
 その作業はたやすいものではなかった。私たちはその大学チームの姿を、冷静に見守る「観察者」だった。


 大学にはもう一つ課題があった。多くのチームがその威力を知る、関学のシングルウイングバック・フォーメーションをどう鍛え上げるか。新たなプレーを導入して、攻撃力にさらに磨きをかける必要がある、と首脳陣は考えていた。


 しかし何度も言う。当時は選手一人が二役をする。攻撃にも出て、守備もする、とにかく両方でプレーするのが普通だった。
 ツープラトーンという用語は、ようやく私たちの耳にも入ってき始めたが、いたって限定的に使われたのが現実で、レギュラークラスの選手を現在のように、本格的に攻撃と守備とに割りふることはなかった。攻撃と守備の各チームをそろえることなど、夢のような話で、実現するのはずっと後のことである。


 つまり、試合で一人二役をこなすからには、普段から、攻守二通りのチーム練習が必要だった。関学は「T」対策という守備の大きな課題を抱えていた。
 にもかかわらず、攻撃でも新手を考え出さねばならなかった。このへんを流してしまえるようなゆとりはなかった。こうした必要な練習に、果たしてどの程度時間を割けただろうか。


 もう一つ。実はこれが最大の課題だったのではあるまいか。当時と現在とで異なっていたこと。これをお話ししておかないと、事態の緊迫度が分かっていただけない。つまり、監督またはヘッドコーチの存在だ。
 今ではこうした指導者は、常にいるのが当たり前で、試合は無論のこと練習でもいなければどうしようもない、と考えるのが普通だろう。


 ところがこの時代は、練習を初めから終わりまで監督が見守るなどということは、まずありえなかった。監督が練習グラウンドに立つのは、試合前とか、何か特別なことがある日に限られた。
 では、誰が練習のメニューを決め、誰がその指揮を取ったのかと疑問に思われる方がいらっしゃるだろう。そう「リーダー」「責任者」の役割は、すべて主将の役目だった。


 練習プログラムを作り、試合では選手交代の指示など、キャプテンは忙しかった。それに、自分自身の練習もおろそかにはできない。むしろ率先垂範が求められた。
 最優先課題の1軍守備の向上。その練習台を務める「T」フォーメーションの2軍。この2軍では、大学1年生の武田建さんがQBとしてその役割を担っておられたのを覚えている。


 こうした関学を、主将の米田満さんは懸命にリードされた。監督であり、ヘッドコーチであり、コーディネーターであった。それに加えて、攻撃チームのQB(シングルウイング)を務め、守備では幅広くDBをこなされた。
 この山口合宿に参加された高校の部長を務める西尾康三先生は、米田さんのノートにこんな文章を寄せておられる。

 〈闘魂。精進。謙虚。スポーツマンとしての全き美徳を備えた、関学の代表的運動部人たる君の、精魂を傾け、計画し、統率し、指導した合宿も終わりに近い。何人前もの重荷を担って、よく頑張ってくれた。君なればこそと思う。
学一、高一の若い選手が、この合宿を機会に、東天に昇ってきた壮観は、君の努力に対する大きな餞(はなむけ)の一つとなるだろう。そして更に大きなそれは、至難といわれる全国再制覇の偉業だ。
将(まさ)に韋駄天そのものの如く、トレーニングのトップを走る脈搏四十五の勇姿は、いつまでも皆の心に消えない映像を留めるに違いない。
  いつまでも、その謙虚な向上心と、関学フットボールの猛者をビビらせた闘志を忘れ給うな。そして関学の明け暮れを心に留め給え〉
「然のみならず艱難をも喜ぶ そは艱難は忍耐を生じ 忍耐は練達を生じ 練達は希望を生ずと知ればなり」(ロマ書)
 西尾康三


 合宿に参加した、40代半ば過ぎの高等部教員が、22歳のスポーツ選手にクリスチャンとして贈った心のこもる一文である。
 贈られたご本人としては、あくまでもご自分の宝であって、外に漏らすべきではないとお考えだろう。しかし、その恩師の一人が、合宿であらわになった米田満さんの人となりを、ここまで的確に活写されているとは、知らなかった。


 ファイターズ内部の話にとどめるべきだ、とのご指摘もあろう。しかし米田さんは関学の一OBのみならず、日本のフットボール界の歴史をつくった一人であることは間違いない。
 こうしたことを併せて考えると、このような重要な話をそのまま伏せてしまう訳にはいかない、と私は考えている。


 もう一つ話を追加する。この山口合宿のさなか、米田さんのすぐ下の弟さんが急死された。米田さんは自分史「関西学院とともに」の中でこれに短く触れておられる。


 「その合宿中に夢想だにせぬ愛弟悦茂(よししげ)の死を迎えようとは・・。出発前日に野球のキャッチボールをして別れたよっちゃんは突然腸炎にかかり、盲腸という医者の誤診で切開手術のあと高熱を発して帰らぬ人となった。合宿中なるがゆえに、私はその死に目にも葬式にも顔を出してやることができなかった」


 どれほどお辛いことだったか。これ以上のコメントはつけない。ただその行動について賛否両論はあろう。
 しかし現在には置き換えないでいただきたい。1950年(昭和25年)という時代をお考え願いたい。この当時の人間としてはこれ以上ないモラルを示されたことだけは、確かである。後年米田さんは、ご長女に「悦子」という名を付けられた。

【写真】関学大の監督も務めた米田満さんの著書「関西学院とともに」