「TURNOVER」の仕事も、間もなく2年になる。八十の爺さまが熱心な読者に支えられて、ここまで来たのだと思うと、実にありがたい話である。
 その大切な読者の一人から先日、こんな突っ込みを入れられた。「山口合宿に高校生が参加したのは分かったが、1年生7人って、あれなんや。上級生の名前は出とるのに、同級生の名前を書かんとはな。黙っといたるから、正直に言うてみ。思い出されへんのとちゃうか。そやろ」。鋭いご指摘である。全くその通りで、一言の言い訳もない。


 「1年生は鈴木、芳村ら7人」と、いったんは書いてみたものの、私以外の4人をこの時点では、どうにも確定できなかった。だからといって、4人をカットするいわれはない。えいままよ。分かったときにしよう。もう一度ぐらい書く機会はあるだろう、と、開き直って「1年生7人」とやったところを「グサッ」とやられたわけである。いい読者である。


 その翌週、5月24日に神戸の王子スタジアムで関関戦があった。これを逃すと、母校の春の大学同士の試合は見られなくなる。特に関西の有力校とのカードだけに、当初から予定をしていた。
 当日は同期のガードで主将の重責を担ってくれた木谷直行さんと、スタンドでお目にかかる予定だったが、木谷さんのご都合があって会えなかったのは残念だった。山口合宿のメンバーの確認を取るつもりだったのではないかと勘繰られそうだが、この人が山口合宿に同行していないのは百も承知。姓名確定の役には立たない。


 代わりにというわけではないが、この日は1951年(昭和26年)卒のQB米田満さんと、ガードの花谷雄弘さんのコンビのそばに、1957年(昭和32年)卒のセンターが席を取って、昔話を交えつつ観戦した。
 近くのOB達から「この一角の平均年齢すごいで」と冷やかしの声が上がる。その一団の真ん中には、1966年(昭和41年)卒のセンター逸見真敏さんが陣取っているのだから、声を上げているグループも決して若くはない。


 小雨模様で気温も低いという天気予報で、そのつもりの格好をして千葉から出てきたのだが、これが裏目。強い日差しに、スタンドはもうすっかり関西の夏の暑さだ。
 顔の左半分に日を浴びながら、後輩たちに声援を送った。手放しで喜べるほどの内容ではなかったが、パスでTDを2本、FG3本。23―3は悪くない。


 試合終了後、先代のOB会長の奥井常夫さんが突然「山口合宿の寄せ書きのコピー、送りましょうか」と声を掛けてきてくれた。唐突だったが、ゆっくり話を聞いてみると、合宿の参加者の名が分かるという。これでこそ今回、わざわざ出てきた目的の一つが果たせる。


 つまり、あの合宿の終わり際に、主将だった米田さんは参加者全員から「ひと言」を集めておられた。そのノート何ページにも及ぶ感想文集をメールしてあげよう、という申し出でだったのである。
 これこそ関学のフットボール部の歴史を物語る貴重な史料である。奥井さんの申し出でを有難くいただいて、翌日遅くに千葉の自宅へ戻ったら、もう大量の寄せ書きがパソコンに入っていた。


 関西学院高等部部員のこの合宿への参加者を披露しよう。前々回も書いたが、3年生は主将でエンドの福田武夫さん、2年生は翌年の主将でガードの佐藤市郎さん、1年生の7人はアイウエオ順に、タックルの青木喜久郎さん、ガードでのちにマネジャーとなった植清輔さん、エンドの岡棟康男さん、QBの鈴木智之さん、中学部で主将をしていたタックルの土金康治さん、センターの私、丹生恭治、FBの芳村昌悦さん、とこうなる。
 この高校生がそのまま大学までプレーすれば、歩留まりは上々だが、OB会の名簿を見ると、残ったのは植さん、鈴木さん、芳村さん、私の4人だった。


 関学高等部の最初の合宿としたいところだが、実は第2回なのである。この前年、大学が炎暑の四国の松山で、「最初の関西リーグ優勝」「最初の甲子園ボウル出場」「最初の日本一獲得」を目指して鍛錬を重ねた際、高等部からは1年生の佐藤さんがただ一人参加し、大学生に交じって過酷な練習に耐え抜いている。
 私はこの高校選手たった一人の松山合宿を、高等部にとっての第1回合宿と認めたい。言うまでもあるまい。ここで厳しく鍛え上げられた佐藤さんはその後、高等部が例の204試合無敗の第一歩を踏み出した年に、主将としてチームの基礎づくりに、骨身を削った。いい部に育った。その一部始終を知る1学年下の仲間からの証言と、お考えいただきたい。


 関学の高等部には名物部長がおられた。西尾康三先生である。部長というのは一般的に、文化部系の部活ではキャプテンで、体育系の部でいう主将のことなんだそうである。
 逆に、体育会系の部活では部長というと、これは間違いなく顧問の先生のことである。主将や監督とは一線を画す。多分、現在も同じだろう。少なくとも、私たちの時代はそうだった。


 この名物部長の西尾先生は、東大を出て関学では生物を教えておられた。熱心なクリスチャンでもあった。フットボール部が関学高等部にできたとき、多分ご自分から部長の職責を買って出られたのだろうと思う。本来の職務である授業と同じくらいの、いやそれ以上の熱心さで選手に接しておられた。「謙虚であれ」を口癖に。


 高等部の練習には、時間があれば、トレシャツ、トレパン姿で必ず参加された。全く選手と同じメニューを忠実に消化された。
 タッチフットボールの時代だから、そのいで立ちには違和感はなかったものの、少し背を丸めた体勢で、ダミーに当たり、パスを受けに走り、挙げ句の果てには私たちに交じって、2対1のハイローブロッキングの練習にまで参加された。


 手加減もあったが、1年生のころはまともに渡り合うことが多かった。時には先生が私たちのブロッキングを見事にかわしたり、私たちが先生のブロッキングを食ってしまうこともあった。
 先生と生徒というよりも、どこから見ても仲間だった。山口合宿にも参加された。高等部9人のメンバーは、高等部10人としてもいいかもしれない。


 お幾つだったのだろう。私たちは10代半ばを越したばかり。木谷さんの記憶では「僕らとは30歳ほどの開きがあった」そうで、だったらこのときは、間違いなく先生は40代半ばである。学年が進むにつれて、こちらの力が増すばかりなので、まともに当たり合うことはぐっと少なくなった。
 しかし、先生は一緒に練習することで、自らの肉体を通して、部活動の本質に迫ろうとしておられた。その思いは強烈だった。自らが練習に参加することで、この練習は正しいのか正しくないのかを、体で判断しようとなさっておられた。


 こうした部長先生の姿勢があったからこそ、世にはびこる過剰な、そして不必要な鍛錬、あるいは形式に陥りがちになる訓練、さらには百害あって一利なしの体罰。世間で体育会にはつきもののように思われがちな、こうしたもの一切は、これまでこの65年間、関学高等部タッチフットボール部(のちにアメリカンフットボール部)では、全く発生していない。


 自慢話めくので、こうした部の空気、部の実情などをあまり語ってこなかった。しかし、われらの西尾先生に登場していただく段となると、どうしてもこういう事実を述べておきたくなる。


 実は大学の方も、昔からこの高等部に勝るとも劣らぬ気風を備えていた。無論、最初は西尾先生とは何の関係もなかった。だが、両方の気風は、やがて一つになっていった。
 こんな話をすると「嘘だ」と言われることが多い。ムキきになって反論すると、かえって逆効果なので、ニコニコ笑ってその場を取り繕うのが、実情である。当然、西尾先生はKGファイターズのOB会名簿に、特別会員として名が残る。私たちの誇りである。


 実は山口合宿の寄せ書きを取り上げたのに結び付けて、この西尾先生が記した米田さんへ宛てた一文を紹介するつもりだった。
 五十近い分別のある男が、二十歳を幾つか過ぎた若者を鼓舞した名文である。さらに間違いなく行数が増える。申し訳ない。許されれば次回にする。

【写真】伝統の「関関戦」は関学大が23―3で関大を破った=撮影:山岡丈士、5月24日、神戸・王子スタジアム