月日とともに移り変わる攻撃体型の中で、「T」の登場というのは日本の場合、やはり一番大きな変化だったといえよう。
 「シングルウイング」または「ダブルウイング」といったスナップを数ヤード後方で受け取るフォーメーションから、直接受け取る「T」フォーメーションへの移行というのは、やはり時代を大きく変えたとの印象が強かった。


 その意味では1950年(昭和25年)の第5回甲子園ボウルは、誤解を恐れず言ってみると、ちょうど時代の変革期ただ中の、「古き時代」最後の決戦ともいえた。
 慶大はダブルウイングが攻撃の中心だった。QBに日系二世の服部太郎さんを据え、FBに米国育ちの藤本武さんが入った。この攻撃体型に適合した二人の働きには王者らしい威力があった。関学はシングルウイングだった。慶大ほどのスターこそいなかったが、タッチフットボール育ちの粒ぞろいのバックスを軸に、多彩なプレーを展開。このフォーメーションの完成を目指した。


 誤解をなさらぬよう、重ねて申し上げるが、慶大も関学も変革を先延ばしにしていたのではない。両校の「ウイング・フォーメーション」を横目に見ながら、一足先に採用した「T」に磨きをかけたチームがあった、ということなのである。
 関東では早大、立大。関西では同大などである。終戦直後、平和条約目前のこうした時代にあって、本場米国から発信されたさまざまな技術、テクニックが、歴史的な必然に従って、日本へ順序正しく流れ込んでいたわけではないこともまた、事実である。


 しかし同時に、米国では明らかに「T」の時代が来ていたことも事実なのである。そして最新のものが必ずしも最強ではないことも、合わせて申し述べておこう。
 米国では「T」の登場以前に古めかしい「T」が行なわれていた。したがって1934年のNFLシカゴ・ベアーズや1941年ローズボウルのスタンフォード大らが導火線となった「T」は、装い新たな再登場だった。


 日本では画期的だった「T」の登場は、米国では注目を集めたものの、それほどの大騒ぎとはならなかった。日本でのこの大騒ぎに匹敵する米国での画期的な戦法の登場といえば、むしろ1912年の、ノートルダム大が陸軍士官学校を打ち破った「前パス」の登場だと、私は考えている。


 日本では立大のノートルダムTの猛威の後、関学がそれに磨きをかけた。「T」全盛期かと思われたのもつかの間、日大がラインに一工夫加えたアンバランスTを誇示し、さらに同校のショットガンの時代を迎えるに至った。
 こうしてQBがセンターから、スナップを直接手渡される時代が終わった。もはや守備の進歩工夫を伴わない限り、攻撃体型の新機軸だけではどうしようもないことが、日に日に明らかになっている。


 得意の道草で話は一気に六十年余り進んでしまったが、そろそろ本題へ戻らねばなるまい。2回ほど前にこの年の関東の優勝争いに簡単に触れたが、もう一度このペナントレースをなぞってから本題の第5回甲子園ボウルに入ろうと思う。


 さて予想は早大に大きく傾いていた。その通りにリーグ戦は進んでいった。日大には35―0、法大には47―0、明大は20―0と3試合を完封勝ちし、立大には1TDを許したが、20―7と快勝だった。
 一方の慶大は日大には19―12、法大には20―0、明大には34―6、立大には12―0と両校を比べると、どうも分が悪かった。


 全勝決戦には優勝を決めた直後の関学から米田満主将をはじめ、7人の部員が東上、初めての「スカウティング」を行っている。
 決戦は早大が2TDを先取したが、慶大が2TD、13点を奪い返して鮮やかに逆転勝ちを収めた。早大と決め込んでスカウトしていた関学勢はこれにはすっかり驚かされた。甲子園対策を急ぎ慶大に切り替える始末だった。


 1950年(昭和25年)12月10日、互いに慎重な滑り出しで、第1QBは0点。しかし関学は次第に地域を進めて、第2Qには慶大ゴール前。その最初のプレーでQBの米田主将は、練り上げていたトリックプレーを繰り出した。


 前年のダブルリバースに対し、リバースにパスを加えたプレーだった。これが1年を隔てて再び成功した。段中貞三さんと鈴木博久さんの両HBのリバースから、鈴木さんがREの中村泰幸さんへ鮮やかにパスを決めて先制した。TFPはFBの高橋治男さんの豪快な中央突破で難なく1点を加えた。


 関学はこのあとパスを連投する慶大の反撃をかわしたが、第3Qに1TDを返された。慶大HB菅原甫さんが見事なパントリターンで関学の10ヤード線へ迫り、FB服部太郎さんからRE原田稔さんへのパスでTDを挙げた。
 TFPはキックフェイクのランを試みたが失敗に終わり、同点にできなかった。勝負はこうして第4Qへ持込まれた。関学は慶大の猛攻にたじたじだったが、相手のファンブルを押さえる幸運に恵まれて息を吹き返した。


 ランを重ねて慶大ゴールへ迫ったあと、今度はダブルリバースからのパスを繰り出した。HBの鈴木さんと段中さんのリバースにLE井床由夫さんが加わり、井床さんが中村さんへTDパスを通した。
 TFPも再度このダブルリバースパスを中村さんが好捕、1点を加えた。慶大は必死の反撃を見せるが、勢いづいた関学の守備を崩せず、逆にパスを中村さんにインターセプトされてTDを奪われた。


 しかし、こうした関学快勝にもかかわらず、前回のヒーローだった徳永義雄さんの名が出てこないことを疑問に思われる向きもいらっしゃると思う。
 徳永さんは私たちにとってもこの上なく懐かしい先輩で、中学生時代は最もよく面倒を見てもらったといってもいい。だがその名は、この回の公式のメンバー表には載っているものの、実際のプレーはしておられない、というよりプレーはできなかったのである。左膝の脱臼で、激しいスポーツはできなかった。


 あの早大に大敗した1週前「同大戦やったな。トクさんは守備の選手の全体重が、左膝の一点にかかるタックルを受けてなあ」と、関西協会の元専務理事の古川明さんは今でも悔しそうに、そのときの情景を振り返る。
 徳永さんの選手生命はこのときに断たれたのだが、橘高紀雄マネジャーは、毎日新聞へ提出した現役選手のメンバー表に、そのまま徳永さんの名を載せた。徳永さんはその後も裏方としてチームの育成に、骨身を惜しまず貢献されたのを、私たちは目の当たりにしている。


 表立つことは極力避けておられたが、1966年(昭和41年)から2年間、米田さんの後を継いで監督を務めた。1967年には長い間負け続けた日大を31―12で倒し、11年ぶりの甲子園ボウル単独優勝を飾っている。個人的感情を丸出しにするが、ご長命だったらと惜しまれてならない。


 また横道へそれた。2連勝した関学では米田さんがいたって正直な感想を述べておられる。前々回だが、慶大の紺野信夫さんの誠に正直な告白に、すっかり帽子(シャッポ)を脱いだが、この古武士の一騎打ちともいえそうな第5回甲子園ボウルに際して、米田満さんも関学主将として、いたって正直な感想を言葉にしておられる。


 スポーツの試合後の談話取材で、きれいな包装紙でくるんだような、あるいは決まり文句で固めたような話を聞かされるのは誠に辛い。それに引き替えこのすがすがしさ。ご紹介したい。それで、再びその中身を毎日新聞編集の「甲子園ボウル五十年史」から引用させていただく。


 早大の「T」対策に明け暮れた関学だったが、「その早大が関東リーグの決勝で勝負強い慶大に1点差で逆転負けする。ここで甲子園ボウルの作戦計画は180度の転換となる」と、戸惑いの声を上げ「前の年、関学はシングルウイングからのトリックプレーを生かして快勝したが、今度はこれにパスを絡ませる策」を立てた。米田さんはひたすら「この勝負手をコールするタイミングを待ち続けた」と語る。


 「秘策」が繰り出されたのは、フィールドが入れ替わった直後だった。「第2Q最初のプレー、慶大ゴール前7ヤード、第4ダウン」と場面を詳しく述べ、「初めてリバースからのパスをコールした」そうだ。
 結果は「それは見事に決まって中村がTDを先取する」と、手放しの喜びようだった。1点差に迫られた第4Qも同様のプレーコール。米田さんはこう筆を躍らせる。先輩を冷やかすわけではないが、このあたり、喜びがほとばしり出ているのが読み取れる。


 「第4Q慶大陣32ヤード、第4ダウンあと5ヤードという局面。私はダブルリバースからのパスをコール。大黒柱の井床は体制を崩しながらも、見事なパスを中村に送ってTD。焦る慶大が投じたショートアウトのパスを、またも中村がインターセプトしてTD。中村は関学20点のうちの19点を一人でたたき出してくれた。20―6で関学勝つ」。フォースダウンギャンブルの山である。確かに当たればでかい。


 勝因については連覇の意欲とチームワークを最初に上げておられる。このへんは決まり文句である。具体的には、攻撃では切り札のリバースパスの使いどころが「カギ」で、的中したのは「天啓がひらめいたからだ」と謙虚に語り、守備では巨漢の井床さんを中央へ配し、自らは服部さんが両エンドの中津川泰三、常雄ご兄弟へ投げるパスのカバーに専念できたことだとも、分析しておられる。


 しかし、こうしたくだりに続いて、米田さんの本心が正直に出ているのが、次の一節である。これを、ご紹介して今回の話を閉じたい。


 「しかし、もし早大が相手だったら我々は勝てたかどうか、といつも思う。
 関学の甲子園ボウル2連覇は神の加護であった」

【写真】昭和25年12月10日に行われた第5回甲子園ボウルのパンフレット