直接関係もないのに、といわれればそれまで。しかし、関西学院高等部へ進んだばかりの私たちは、大学チームが早大に喫したあの衝撃的な大敗の空気を、そのまま引きずっていた。
 そしてあの日から9日目の5月16日、私たちは新しい展開にびっくりすることとなる。


 さまざまな意味で、私たちはフットボールをする環境に恵まれていた。恵まれ過ぎていた、といえるかもしれない。
 この日、大学のマネジャー橘高紀雄さんが「タックルの試合をやらんか」という話を高等部へ持ち込んでこられた。こんな話が大学から高校へすいすい通る状態にあったということである。今ならどうだろうか。


 反面、やれ防具をつけたいの、タックルの試合をしたいの、遠征したいの、と実力もないのに、普段からこうしたい、ああしたいと、さまざまな要求を、誰に遠慮することもなく口にしていた私どもの仲間の、フットボールに関する声が、常々大学の中心部へ届いていたからこそ、あれほど言っているんだからと、何かあれば、即、話が下りてきたのも確かである。


 このとき私たちは初めてフットボールをやっているチームとして、山口高校という名前に接した。合わせて広島の崇徳高校の名も知った。
 神戸市の西に位置する星稜高校よりも、もっと西に、二つもフットボールをする高校がある。しかもそのうちの一つ、山口高校はタッチではなく、防具をつけて本式のフットボールをしている。これだけでも十分驚くに足ることなのに、使っている攻撃体型が「Tフォーメーション」である、と聞いたのだから、これはもうびっくり仰天の大ニュースだった。


 やろう、やろう。あこがれの防具を着けることができるので、私たち1年生は一も二もなく賛成した。この日に決まったようなことを書いているが、本当のところはもっと前から話は進んでいたのだろうと思う。 関学の新制高校チームとして初めてのタックルの試合は、5月28日に花園の第二グラウンドで行われることが、とんとん拍子に決まっていった。


 ただユニフォームはそろっていたとは言い難かった。そこで、これも橘高さんの肝いりから大阪南の問屋街で、空色のを整えた。襟がついていた。デザインはともかく生地に伸縮性が乏しかったので、防具を着けると窮屈で困ったのを思い出す。


 強い相手だった。前回書いたが、日大出身の松山一弥さんが戦後、旧制の山口高校に赴任して作り上げたフットボールチームである。学生の年齢からいうと、短大クラスとお考えいただきたい。
 そのため最初から本式のフットボールをやり、新制高校になってからも、タッチフットボールではなく、そのまま防具を着けるフットボールとして続けられた。


 「T」の採用は最初からだそうで、後年、松山さんご本人からうかがった話によると、九州駐留の米軍から提供されたプレーブックをそのまま使用したという。
 ここで使われていたもともとのものは、「由緒正しい」南加大のプレーそのものだったそうである。
 同じ高校生だが、関学は終始圧倒された。大量40点を奪われて、0点に抑えられた。クオーターごとの得点を書いておく。


    山  口 13  14   0  13=40
    関  学  0   0   0   0= 0


 この当時の多くのチームの攻撃力、守備力から考えると、2TD差ぐらいが大体妥当なところで、それ以上の開きだったら、チーム力にかなりの開きがあるとみてよかった。
 例えばこの年、1950年(昭和25年)の関学高の得失点を拾い上げると、春は奈良高に0―12、池田高には0―32とそれぞれ敗れている。


 しかし、試合での感触から言えば、奈良にはなんとか戦えそう、といった感じがあったのに対し、池田には全く歯が立たない、といった印象で終始した。
 秋に京都の日吉高と6―0、豊中高と12―0という点差で勝っているが、これも一つ間違えば黒星、といった接戦だった。


 こうした例から見ると、山口高の40点は完全に実力に開きがあることを物語っている。では山口が池田と顔を合わせたら、これはきっと面白い試合になったと思う。
 体をぶつけ合った者の感触から言うと、本物のフットボールなら、タックル慣れしている山口が間違いなく強い。ただタッチフットボ-ルだと少し事情は変わるかもしれない。


 テストの機会を与えられないまま、間もなくフットボール界から姿を消すことになる山口は、1950年は明らかに「日本一」だったのではないか、と今でも思うことがある。


 「T」に対する守りの理論を確立するのが、関学の課題だった。スクリメージラインの最前列から目を凝らして、スナップからハンドオフ、またはピッチアウトまでの一連のQBの動きを見ていると、まずどこでボールキャリアの行方を見失ってしまうのかが、今一つ分からなかった。
 つまり、普通のプレーでは球の行方がよく見えているのである。あるいは山口が基礎的なプレーだけしか使ってこなかったせいかもしれない。それでも私たちがひたすら進まれたのは事実である。


 つまり向こうの強い当たりに押されたり、RBの素早い動きに対応できなくて進まれる。とにかく基本技に開きがあるためだということが、本当に理解できるのは、もっともっと先の話である。


 大学サイドは貴重な「T」の技術をたっぷりと詰め込んだこのチームから、教わるべきものはすべて教わり尽くそうとしていた。
 高校生も大学生もなかった。向こうが「T」について水準の高い知識を持っている以上、ここに教えを乞わなくてどうする、といった貪欲さがあった。
 「T」対策。この年の山口での合宿は、間違いなくこの延長線上にあった。大学からは高校にも声がかかった。「君らもこんか」


 高校からは主将の福田武夫さん、2年生で来シーズンの主将が「約束」されている佐藤市郎さん、1年生は7人だった。8月23日に出発し、山口教育会館に宿泊。10日間の日程でしっかり鍛え、9月3日に夜行で帰ってくるという日程だった。
 帰着の当日は超大型のジェーン台風が大阪を直撃した日で、帰宅してすぐ雨戸を押さえていたのを思い出す。


 合宿には大阪警視庁の方も参加し、日程や宿舎は別だったものの、同じグラウンドで鍛えあった。合宿の半ば、この警視庁の方々と高等部9人がチームを編成し、山口高と練習試合をした。
 このとき、大人の力を借りてだが、7―0で勝てたのは、私たちの成長のあとを物語るものだった。


 合宿最終日には、高校チームに大学の新人が加わったチームがつくられて山口高と対戦したが、0―12と完封負けを喫した。
 一方大学は全山口と対戦、23―0で快勝した。観衆はかなり集まった。地元の中国新聞山口支社の後援を受け、県知事からの優勝杯の寄贈されるなど、かなり晴れがましい合宿最終日だった。


 秋のリーグ戦は10月下旬から西宮球技場で始まった。「T」に対して、これだけ心を砕いてきた関学は、関大には40―7と大勝、京大には26―0と完封勝ちしながら、「T」の同大には13―25と苦しんだ。
 このためリーグ戦終了直後の11月23日、再び同大に対戦を乞う始末。27―0と快勝し、手ぐすね引いて、最有力チームの早大に備えていたが、関東リーグでは慶大が早大を13―12の僅差で破って、2年連続の優勝、待ち構える関学の機先をそいだ。

【写真】1950年に発行された「タッチフットボール公式規則」