アメリカンフットボールでは、山ほどある攻撃のフォーメーションの一つを採り上げ、そこへパサー、走者、レシーバーらを配置、右へ左へと動かして、効果のほどを夢見る楽しみが欠かせない。
 どんなスポーツでもそうだ、といわれればそれまで。しかしその度合いを考えると、間違いなくフットボールを特徴づける最大の理由の一つがこれだといえだろう。


 今から六十有余年以前、私たちは「シングルウイングバック・フォーメーション」という攻撃隊形になじんでいた。鳥の片方の翼の形をしたフォーメーションである。「どんな形?」と尋ねられると、返答に何行も何行も費やした挙げ句、理解を得られないままになるのが普通であろう。


 ところがこのフォーメーションに限って言えば、結構簡単なところに見本があるので、こんな楽なことはない。これは、しっかり今、覚えていただこう。
 協会旗をご覧になったことは、おありだろう。明るいブルーの旗で、その上部、旗竿に近いところに、白抜きの星が並んでいる。これがシングルウイングのフォーメーションを図案化したものなのだ。


 普通、旗竿は左に置く。従って協会旗は右シングルウイングといえようか。無論風にはためいて反対側を向けば、これは間違いなく左シングルウイングのフォーメーションである。
 現役当時はほかにダブルウイングというのもあった。これを使うチームも結構多く、慶大などはこれで何度も優勝している。


 今のショットガンと思っていただければ間違いなく。センターの真後ろ5、6ヤードほどのところにテールバック(TB)を置き、この選手を起点にプレーを展開した。間違いなくエースだった。、当時は大体この二つが主流で、他にはノートルダム・ボックスとかいうのもあった。いずれもセンターと、そのスナップを受け取るバックスの間に距離があった。


 妙な表現をして申し訳ないが、スナップされたボールは、守備チームから丸見えだった。そこへセンターがバックの一人へ、直接ボールを手渡すフォーメーションが登場した。Tフォーメーションである。
 本場では古くから使われていたフォーメーションである。それが1930年代半ば、プロフットボールNFLのシカゴ・ベアーズの監督ジョージ・ハラスの手によって、近代的な「T」として生まれ変わり、ベアーズを王座に押し上げた。
 カレッジでも1941年元旦のローズボウルで、Tのスタンフォード大が21―13とネブラスカ大を破って、T時代の幕を開けた。


 日本に「T」が登場したのは、当然のことながら戦後だった。日本アメリカンフットボール五十年史の「限りなき前進」によると、「T」に真っ先に取り組んでいたのが、早大だった。
 1948年(昭和23年)に「T」の採用を決め、3勝2敗でリーグ戦3位。翌49年は、中山晃監督指導のもと、慶大とともにリーグ戦4勝1敗で1位を分け合った。
 しかし、前回の「TURNOVER」に書いた通り、前年優勝校上位の運営規約に基づき、甲子園出場は慶大に譲っている。


 49年はまた立大に米国聖公会から牧師として派遣されたドナルド・オークスさんが、講義の間にフットボールの指導に当たった。オークスさんはダートマス大出身で、スポーツに精通した方だった。立大に持ち込んだのはノートルダム大の「T」。
 49年は3勝2敗の3位で、順位を一つ上げ、50年も同様だったが、関東リーグでは侮りがたい存在となっていた。事実51年からは4連覇するのだが、この話はまた後日にする。


 つまりこの時期、関東では本格的な「T」が登場。実戦での威力を示していたのに対し、関西では同大が「T」を採用していたものの、ウイング系の関関両校には、効果を上げるほどの力はなかった。
 その1950年(昭和25年)の春、関学にとっては悪夢のような試合が組まれた。


 5月7日、場所は花園。相手は早大、こことは初めての顔合わせだった。関東勢とは慶大のほか明大と定期戦を組んでいるだけで、早大は3校目だった。
 花園は近鉄奈良線沿線のラグビー場のことである。現在の東大阪市。目の前には大阪と奈良を分ける生駒の山々が、なだらかな稜線を見せる。その平野の真ん中に造られたラグビー場は、芝のきれいなフィールドだった。


 現在は全く使わせてもらえぬが、この当時は時々フットボールも使ったものである。しかし芝が予想以上に傷んだことは間違いない。使用して4年目の1952年を最後に、持ち主の近鉄から断られるようになった。
 余談はともかく、この試合はどちらが声を掛けたのか、現時点ではまだ調べがついていないので、何とも言えない。


 「T」に対する研究をと、前年の甲子園で慶大に勝った関学が、そのライバルだった早大を次の相手に選んだ可能性はある。反面同率1位になったものの、リーグ規約で甲子園出場を逃した早大としては、真の日本一をこの春の試合で、と目論んだことも十分考えられる。
 慶大のダブルウイングが通用しなかったのなら、早大の「T」ならばどうだ、とこんな自負があったのではあるまいか。


 私たちは高校へ進み、この日はメーンスタジアムに隣接したグラウンドで奈良高校と試合をし、0―12で敗れていた。何の試合だったのかは、メーンで行われた試合の結果に強烈なショックを受けたため、記憶にほとんどない。


 さて、その大学の一戦は関学のボロ負けであった。早大の54点に対し関学は6点。仮に「T」の偵察ということを主眼としていても、この点差から何をつかみとれたか。
 むしろ「T」に対する勉強不足、認識不足を、関学の関係者はだれもが痛切に感じたのではなかろうか。


 そのこともあって、この54点もの大量失点がどのように記録されたかを記したデータは、関学サイドには全く見当たらないという体たらくである。せめて関学の挙げた6点は、どのようにして取り返したものかも知りたいところだが、これも本稿執筆中の時点ではかなり不明瞭である。


 主将だった米田満さんはこの試合について、後年このように述べている。
 「連勝街道を驀進していた関学に一大鉄槌を加えたものであり、王者としての誇りも根こそぎ奪われた感すらあった」と、まず率直に述べ、「Tに対する守備力の弱さは関学の致命的欠陥といわれていたが、この試合こそはその明瞭なる現れ」と、言い切っている。


 主将として下した結論は「率直に事実を見つめ、もう一度第一歩からやり直す」と、単純に割り切り、具体的な目標として「伝統のシングルウイング・アタックの伸長とともに、Tフォーメーションに対する守備が決定的なものとして、真剣に考えられねば…」と結んでおられる。
 のちに関学フットボールの理論面の指導者として世に広く知られる武田建さんは、この試合では新人としてベンチに入っていた。


 武田さんが、昨年6月に関学の学院史研究会で「関学アメリカンフットボールと私」と題して講演されたのをまとめた小冊子がある。
 ここで武田さんは、まず「T」について「センターが直接QBにボールを手渡すという、まったく新しい攻撃システムの出現です」という認識を示している。


 そして、試合の大半をベンチで過ごした武田さんは「大きく点差が開いた第4Qには、ベンチもあきらめムードだったのか、私を守備の最後列(つまりセーフティー)に送り出した」と語る。
 「遠くの方からこれがTか、と見ていたら一瞬の間に敵のRBが目の前に来ていた」と驚きを隠さず「ボールを持っているのはだれだと、関学の守備が右往左往している間に、試合が終わった」と、実戦に身を置いた印象を述べている。


 この試合の後、関学は仮想Tチームに新人を充て、武田さんはそのチームのQBとして、1軍の練習台を務めた。夏合宿は山口と決まった。
 この地で本格的なタックルのフットボールを行い、その上「T」を使う高校生チームがあったことを知る人は、よほどのフットボール通である。チームを作り上げ、「T」を教えた「先駆者」を松山一弥さんという。日大の出身である。山口合宿の狙いが「T」対策にあったことは言うまでもない。


 秋のシーズンをこうした早大一本に絞って過ごしたが、結局甲子園ボウルの相手は再度慶大。リーグ戦最後の全勝対決を13―12と1点差でしのいで、優勝した。
 関学がこの結果に安堵したさまは、のちのさまざまな資料に明らかで、甲子園ボウルは自信そのままに20―6で連覇を果たした。


 関学にとっての「T登場」の物語は、こうした大傷を癒した後に正念場を迎え、次のステップを上ることになる。
 この試合そのものは悪夢だったかもしれない。しかし、後々ゆっくり考えてみると、天佑だったように思えてならない。

【写真】関学を苦しめた早大のTフォーメーション