1949年(昭和24年)12月18日、第4回毎日甲子園ボウルが甲子園球場で行われた。東の代表は慶応義塾大学。2季連続3度目の出場である。迎え撃つ西の代表は初登場の関西学院大学だった。

 
 スポーツをするものとして単純だった。王座決定戦に出たい。そして勝ちたい。関学の選手たちはただこれだけの目標のために、脇目も振らずに体を鍛え、技術を学び、練習を重ね、そして裏山の階段を駆け上がり駆け下りた。
 瀬戸内の猛暑にも耐え抜いた。米軍の巨大な胸も借りた。こうした努力の末に、関学は関西のライバルを一つずつ倒して、初めて甲子園ボウル出場資格を得た。その足取りについては前回ご紹介した通りである。


 一方の慶大も、この秋は苦戦を重ねていた。日大を25―0と完封したものの、法大には逆に0―14と完封負けを喫した。決して平坦ではないリーグ戦だった。
 それでも明大を19―0、立大を6―0とかわし、強敵早大を14―6で下して4勝1敗でリーグ戦を終えた。


 早大も4勝1敗の同率だった。だが、前年順位優先の規定が慶大を救い、甲子園ボウル出場となった。3位には3勝2敗で立大が続いた。
 立大はドナルド・オークス監督就任1年目だった。本場仕込みの最新フットボールは2年後、大きな花を咲かせることになるが、この年はその片鱗がうかがえた、という。立大の話はまた後日にしなければならないので、今回はこれだけ。


 始めての大舞台を目前にした関学は、西の代表になったこと、憧れの甲子園ボウルに出場できることを素直によろこんでいた。過ぎると嫌味になるが、あくまでも謙虚だった。 
 そして勝敗は時の運と割り切り、とにかく全力を尽くそう、試合に集中しよう、最後の瞬間まで戦おう、と恐ろしくストイックな態度で開幕までの2週間を過ごしていた。


 私たち中学部の部員たちも、授業の行き帰りに、部室の前を通り、声はかけるものの、それまでのような減らず口をたたいたりする者がいなくなった。減らず口をたたけなくなった、といった方がいいかもしれない。それだけ緊張感漂う、ピリッとした空気が満ち溢れていたのである。


 その辺りを少し和らげるものがあったとすれば、前回触れた部の歌「Fight on Kwansei」の練習だった。私たち中学生も最後の部分をすぐ覚えて「…The best school in the land」と歌いながら帰途についたものである。
 米田満さんも武田建さんも、当時のことを振り返るときに必ず「メロディーを口ずさみながら」とお書きになっている。どなたも一緒である。大試合直前に米国からこの歌が届いて、うれしかったことに変わりはなかったのである。


 試合当日はどんよりとした天候だった。近畿の冬はこの時期、こうした雲の多い日がよくあるのが普通である。私の住む千葉市辺りでは、冬は空が抜けるように青く、雲一つない日が珍しくない。これこそが冬という天候によく恵まれる。
こうした関東平野とは違って、関西では日本海側の影響を受けやすいのだろう。曇った日にぶつかることは、そう珍しいことではない。


 この日、私たち中学生は初めて甲子園ボウルを観戦した。第2回の王座戦となる高校のタッチフットボールは、慶応が奈良を6―0で退けて、初のタイトルを獲得した。
 もっとも私たちは高校の試合には興味がなく、あの外野席に仲間とともに陣取ったのは、試合直前だったような気がする。


 大体、誰と連れ立って出かけたのか、それが今となってはさっぱり思い出せないでいる。QBの鈴木智之さんがいたように思うが、彼はマスコット扱いで、よくベンチへ入れてもらっていたのを考えると、フィールドの方だったのかとも思う。
 FBの芳村昌悦さん、LEの西村一朗さんらは同じ豊中組なので行動を共にしていたのは間違いないのだが…。


 関学は優勢に試合を進めていた。フォーメーションは「シングルウイングバック」。普段私たちを遊んでくれている人たちが、QBの掛け声に合わせて、小気味よい動きで右に左にと「翼」を展開し、エンドランやオフタックルやリバースを繰り出していた。
 始まって間もなく、そうしたプレーの中で、私たちが最も見たかったプレーが出て、それがものの見事に決まった。「ダブルリバース」という。シングルウイングならではのプレーである。


 第1クオーターの3分だった。ゴール前15ヤードに迫って、繰り出した「伝家の宝刀」である。LH徳永義雄さんが右へ突進し、ウイングバックの位置から反転して左へ走るRH鈴木博久さんへ球を手渡す。
 鈴木さんは、左のエンドの位置から右へ走るLE井床由夫さんへさらにボールを手渡す。2度の方向転換で、大体守備側は混乱する。この時もそうだった。右へ走った井床さんは15ヤードを苦もなく突破して、貴重な先取点を挙げた。


 TFPは鈴木さんの右エンドランが決まった。このころのTFPはゴール前2ヤードからで、ランでも、パスでも、キックでもすべて1点だった。
 7―0とリードした関学は、10分ごろ徳永さんが右のエンドランで大きく前進。今度はゴール前2ヤードから鈴木さんが左のオフタックルで差を開いた。第2クオーターには奈良高出身のQB藤井浩月さんが中央を突いて加点。19―0として前半で大勢を決めた。


 中学生たちは無邪気に喜んだ。それにしてもタッチフットボール出身の3中学のスターたちの力量はさすがだった。
 存分にその力を発揮した人たちは、井床さん以外、全員が1年生。ほかにも1年では奈良出身のFB高橋治男さんもよく走り、毎日新聞スポーツ面の写真にその勇姿を見せている。


 そして私たちは後半に、とても忘れることのできないビッグプレーを目の当たりにした。今でもこの試合の話が出ると、それまでのTDはそっちのけになる。つまりインターセプトからの大独走である。
 演じたのは徳永さん。後半の慶大は陣容を建て直し、じわじわと関学ゴールに迫っていた。TDまであと一息だった。ここで慶大がコールしたのは右の短いアウトのパスだった。これに徳永さんが的確に反応した。


 当時は攻守の選手の交代など全くない時代である。攻撃時の左のハーフバックそのままに、守備でも同じポジション(今風に言えば左のCB)を守るのが普通だった。
 徳永さんの守る左サイドへ、パスが飛んできたのだ。ボールを奪い取った徳永さんは、そのまま目の前に大きく開けた無人のフィールドを、サイドラインに沿って快足を飛ばし、95ヤードを独走。追加点を挙げた。私たちはこのビッグプレーにただただ驚嘆するばかりだった。記憶に深く刻み込まれたTDだった。


 それ以来関学の、私より少しお年を召した、古い古いOBたちは、短い外側のパスを、ディフェンダーが奪い取り、リターンしてTDを挙げると、顔を見合わせてこう言う。「徳さんやな」。「うん、トクさんやな」
 昨秋の関学―立命の決戦で、関学のQB斎藤圭くんのパスを、立命のDB八条彬久くんが関学20ヤード地点でインターセプト、TDを挙げたときは、古川さんと目を合わせて、どちらからともなく「徳さんやな」という言葉が出ている。


 プレーの場所、投げた方向、リターンの距離など、どれをとってもかつての大プレーとは異なるのだが、外の短いパスを奪って点にすると、関学の八十歳台の爺さんは、そんなことにはお構いなしで、このようにつぶやくのだ。


 慶大はこのあと、第3クオーターにQB服部太郎さんが中央を突破してTDを返したが、大勢に影響はなかった。関学の25―7という予想もしない大差の試合だった。


 この毎日甲子園ボウルを主催する毎日新聞社は1996年9月、95年までの50回を記念して50年史を刊行した。各年、各回の記録などが載り、後半には各回の出場選手が自らの思い出を書いている。
 3週ほど前だったと思うが、明大OBの方が、花岡惇監督が米軍に掛けあって、東京―大阪間の移動に、駐留軍専用車を利用させてもらった話などを書いておられ、その話をそのまま頂いている。


 この第4回のところでは、関学は鳥内明人さんが武者震いを覚えた話をしておられる。一方の慶大では、RGを務めた紺野信夫さんが、実に率直な話をしておられるのに驚いた。
 長い間スポーツ記者として、数多くの勝利者の弁、敗れた者の話を取材してきた。しかし、今回初めてこのページをひも解き、この何一つ包み隠さぬ内容に、一種の感動を覚えた。


 さまざまな敗戦の弁があるが、これほど素直にチームの状態をさらけ出された例を、私は知らない。
 紺野さんは甲子園ボウルは第1回から出場しておられる。慶大ではこの1、3、4回に出られた方が意外に多数いらっしゃる。服部さんがそうだし、RHの林俊郎さん、第4回大会当時の主将のRE加田真三さん、といった方々の名が第4回のプログラムから拾い出せる。
 いわば慶大は甲子園については、常連だったし、甲子園は我が家の庭だった。初出場で武者震いしていた関学とは、大きな開きがあった。


 まず、試合前日の慶大はこうである。
 「球場内のウナギの寝床みたいな宿舎に旅装を解き、軽く練習して解散。申告の上外泊者をチェック、当日の朝9時集合に決めました」


チームの空気は「最高学年の私は第1回、第3回と出場し、関西遠征でも負け知らずでしたので甘えがあり、相手の技術を馬鹿にしていた。これは口にこそ出しませんでしたが、全員共通の思いでもありました」と、実に正直に実情を述べておられる。


 その結果、「ゲームに入りますと、相手の当たりが強く、その上、タックル、ブロックが高く、ちょうどみぞおちに入り、戸板に乗る(失神して出される)者が続出。私も開始5分ぐらいで、ベンチの前に寝かされました」と告白しておられる。


 試合は「プレーがおざなりになって、後半になるとメンバーからお天道様が黄色く見える、と悲鳴が上がる始末」だったそうである。それに、このころは同じ選手が攻守を兼ねていたため、「疲労がたまり、勝敗よりも早くゲームセットを、と待ち望みました」と語っておられる。


 そして翌日「心斎橋の理髪店で丸坊主にして帰京した」のが、慶大側の顛末だった。
 何が勝負を分けたのかは、この紺野さんの述懐で手に取るように分かる。ほかには何も理由はいらないほどだ。


 「相手を見くびることに大きな落とし穴があることを痛切に感得した一戦であった、と四十数年たった現在も脳裏に強く刻まれております」と深く反省して、紺野さんは談話を締めくくっている。

【写真】第4回甲子園ボウルに出場した慶大・紺野信夫さんの手記