半世紀という。50年である。この間から紹介している甲子園ボウルが始まったころの話は、それよりもさらに15年ほど古い。「よく覚えていますね」と感心される。でも私にすれば、ついこの間の話でしかない。


 数枚の、いや1枚の資料さえあれば、そこで活躍された方々の顔は浮かんでくる。それに、手元には毎日新聞社が編集した「毎日甲子園ボウル五十年史」、第20回大会の記念プログラム、それに毎回申し上げている関西協会の元専務理事の古川明さんからいただいた第1回から第4回までのプログラム(メンバー表)がある。


 関西学院側から見る場合は、1949年(昭和24年)から58年(昭和33年)にかけて発行された「上ヶ原スポーツ」17巻の合本もある。
 人の記憶とか感覚などに頼るだけならば、ここまでフォローはできないが、これだけ豊富な材料があれば、もはや怖いものはない。
 いよいよである。といっても「何がいよいよだ」と言われればそれまでのこと。私にとって、1949年(昭和24年)に母校が初出場した第4回の甲子園ボウルに差しかかった、というわけで他意はない。


 その前年、関学は大会出場にあと一歩と迫りながら、行く手を阻まれて文字通り涙を飲んだ。甲子園へ出るためには何が欠けていたのか。何をしなければならないのか。私たちより六つも七つも年上の方々は、この命題にそれこそ必死に取り組んだ。


 私たちは新制中学の3年だった。新制大学の3年や4年の、私たちから見れば「オッサン」の選手たちが真剣なまなざしで練習を重ねる姿は、しかし、これまでとどこが違っていたのだろうか。


 戦時中は馬小屋だったという狭い小さな部室の前で、鼻歌を歌いながらシューズに保革油を塗っていた人は、私たちが練習のない日に、授業を終えて通りかかると「おう、今日はもう終わりか」と積極的に相手になってくれた。
 ボールに空気を入れているのを黙って見ていたら、「代わりに入れてくれるか」とボールを渡されもした。それまでと全く変わらないのである。


 この連載でおなじみの米田満さんのすぐ上の学年が、この年の最上級生だった。主将は渡邊年夫さん。ポジションはガード。寡黙で温厚な人柄だったが、公私の別はいたって厳しかったと、当時の懐旧談でOBの方が述べておられる。
 卒業後、当時大阪警視庁と言っていた大阪府警に入り、生れたばかりのチームを強豪に育て上げた。


 なお、このときの1年生が例の豊中、池田、奈良のタッチフットボール発祥3中学から、橘高紀雄マネジャーが招いた「金の卵」たちだった。
 余談になるが、大学での1年生とはいえ、この前年日本協会は選手資格の例外的措置として、大学予科1年、専門部1年、新制高校3年の学生の大学でのプレーを許可した。そこから考えるとこの「金の卵」の方たちは、関学に入って2年目だったのである。


 このへんのことをあまり詮索すると、すぐぼろが出るのでこれぐらいにするが、一つだけ付け加えておこう。
 前回の高校タッチフットボール選手権の話をした際、池田高校のエースRB鈴木博久さんについて触れたが、この年関学へ進んだ鈴木さんは、今度は1年目だったにもかかわらず、RHとして堂々と先発メンバーに名を連ねた。
 前年に関学へ進んでいたTの尾田升さん、Gの古川明さん、LHの徳永義雄さんらと、再び同級生としての先発出場だった。ま、このへんのややこしさは、戦後のこの時期しかないので、事実として記しておこう。


 本題に戻る。渡邊主将率いるこのチームで書き落とせないのが、鳥内明人さんだろう。この苗字を見たらどなたでもすぐ合点するに違いない。現在の関学を率いる鳥内秀晃監督の親父さんである。
 関西を代表するタックルだった。身長178センチ、体重は20貫というから75キログラム。当時の選手としてはかなりの大男と言えた。猛将という表現がピタリだった。


 米田さんの言葉を借りれば、関学の「闘志の発火点であり、推進力」だった。口は悪かったが、やさしい人で、私たち中学生を何かと目にかけてくれた。柔の渡邊さん、剛の鳥内さんは名コンビだった。ほかに、FBの竹内昇さん。シングルウイング時代の看板プレー「ゴーイングホスピタル」のボールキャリアーだった。


 中学生の眼からは、チームの空気の変化に気づくわけはなかった。ただ一つ、練習の中に新たに登場したものがあった。のちに「階段」の一言で表現される駆け足だった。
 どこのチームにも飛躍的に成長したり、様変わりしたような部分があった時、あとから強調され、伝説化され、神話化される事柄がある。そのチームにとっては特別なものであっても、傍らからは、必ずしも特別には見えないものである。
 このへんがものを書くときの難しさで、世間に向かって、ここを先途と「どうだ、見たか」と大声を張り上げるものではあるまい。


 したがって、この当時行われた練習前後の「階段行き」を特別視するのは、関学の内部だけで十分、とお考えいただくのがいい。ただ、どのようなものだったのかぐらいは説明する必要があろう。


 西宮市上ヶ原の関学キャンパスを象徴する建物が旧図書館、現在は博物館の時計台である。阪急電車の甲東園駅からの坂を上がってくると、真正面に緑の甲山をバックにして、赤い屋根、クリーム色の外壁の「スパニッシュ・ミッション・スタイル」の時計台が建っている。「階段」の舞台はこの建物の裏である。


 甲山を背に、といってもキャンパスとくっついているわけではない。時計台の裏には上ヶ原の集落の生活用水ともいえる、きれいな水の小川が流れ、その向こうに赤松の多い雑木林の小山があった。神戸市水道局の上ヶ原浄水場である。


 小川に沿ってこの小山を回って行くと、今度は阪神水道企業団の甲山浄水場の区域に入る。この山の上から山肌に沿って、太い水道管が埋められている、という話を聞いたことがあるが,真偽のほどはともかく、その水道管が通っているとされる場所に、コンクリートの長い階段が造られていた。
 関学アメリカンフットボール部の選手は、この階段を練習の初めと終わりに全員で駆け上り、駆け下りた。


 私は当初、練習終わりの締めに「階段」を走ったように覚えていたが、今回この稿を書くに当たって「上ヶ原スポーツ」を開くと、米田さんが「練習の初めと終わりに」と述べておられるのに気が付いた。「終わりだけ」と「初めと終わり」とでは、きつさが違う。
 後輩の一人としてこうした記述を読むと、自らを自らの意志で鍛え、それに倦まなかった先輩の方々のさまが、行間からにじみ出てくるように思えた。


 しかし、春は同大に32―0と快勝したものの、関関同3大学のOBで編成した関西フットボールクラブには22―13、さらに関大には2TDを先取されたのをひっくり返して14―13の辛勝という結果が続いた。


 確かに苦戦だったが、逆転できる力が備わってきたことを、誰もが感じていた、というような所感を米田さんが記している。
 夏は松山での合宿だった。夕方に風がピタリと止まる瀬戸内特有の暑さは、体験した者でないと、簡単には想像できない。その中での練習は、今の若者言葉で言うと「ガチ」だったそうだ。


 秋のリーグ戦は楽だったろうと思いながら、成績をひも解いた。10月29日に西宮で始まったリーグ戦では初戦、当時関西で「T」を手掛けていた同大に苦しめられて14―7。続いて11月5日の京大戦はパス攻撃に受け身となって19―13と、2勝したものの苦戦が続いた。
 ここで一つ訂正がある。前回、1948年(昭和23年)に京大が初めてリーグに参加したと書いたが、京大の加入は1947年からで、1949年は3年目である。お詫びして訂正する。


 さて強敵関大戦はどうなるのかと危ぶむ声が上がり始めた折も折、福岡の米軍砲兵隊から感謝祭の記念試合の相手として関学に白羽の矢を立てたとの連絡が来た。
 関大との試合は12月3日に予定されていた。時間的ゆとりはあった。戦後初の日米対抗が思いがけない形で実現したことに、部員一同大喜びしたことが、関学のいろいろな資料に記されている。


 私たち中学生も22日の夕方、夜行で福岡へ旅立つチームを見送りに大阪駅へ出かけたと日誌に書いている。ゲームは24日に行なわれ、スコアは7―27だった。
 思いがけない形で実現した親善試合は、関学を大いに勇気づけた。とりわけゲームの終盤だったが、ターンオーバーからチャンスをつかんで一矢報いたことは大きな自信につながった。
 リーグ戦の最終戦は26―0の完封勝ちで、悲願の初優勝を飾り、第4回の甲子園ボウルの出場権をつかみ取った。


 甲子園ボウルを前にしたある日、部員たちが部室の「馬小屋」の前で大真面目に何やら歌を練習しているのに出くわした。英語の歌だった。グリークラブの方たちが練習を手伝っていた。
 リズムを取り、歌い方を直し、自ら手本を歌った。タクトを持ち直しては「はいもう一度」。「オッチャンら何しとんの」と中学生。「終わるまで待っとり」―。


 聞くと部の歌だという。そんなものがあるんだ、と少し驚いた。この時期、中学部にフットボール大好きの米国人の先生がおられた。担当は当然英語だが、授業が終わるとすぐグラウンドへ出て、毎日のようにフットボールのコーチを買って出ておられた方がいる。
 ウィリアム・ポーターさんという。この先生の兄上から届けられた曲で、作詞はその夫人。作曲は兄上本人と伝えられ、今も歌い継がれる「Fight on Kwansei」だったのである。

【写真】第4回「甲子園ボウル」のプログラム=資料提供:古川明さん