昔話が続いている。というのも、関西協会の元専務理事、古川明さんからいただいた第1回から第4回までの甲子園ボウルのプログラム(メンバー表)のコピーは、毎日新聞発行の「毎日甲子園ボウル五十年史」などと突き合せると、まさしく宝の山だったからだ。
 全部を語り切ったわけではない。だが、第1回から第3回までの数多くの物語が、そのまま私にとって、私たちにとって、切っても切れなくなる第4回大会以降へとつながっていくのだと思うと、感慨深いものがある。


 とりわけ1949年(昭和24年)1月9日の第3回甲子園ボウルは、というよりそこへ至る道筋は、関学にとって忘れてはならない険しさがあった。
 OB意識丸出しの表現で、読者の方々には大変申し訳ないが、このときの苦難が翌年からの飛躍につながったことを考えると、少しはご紹介しなくては、という欲が出てくるのである。


 その前に、終戦後の数年間、中学、高校、大学の制度が毎年のように変わっていたのを知る必要がある。真っ先に中学が変わった。小学校、つまり国民学校と称した小学校の6年間を終えたばかりの私たちを待っていたのは、義務教育となった「新制中学」だった。中学1年として進学したが、すぐ上の2年生は旧制中学という奇妙な形が残っていた。


 この時期の教育制度は、下の学年から徐々に改革が進んでいたものの、頂点の大学は、3年ずつの本科と予科という制度がまだ健在だった。
 また予科と同格の、旧制の一高や三高とか、高商、高工などの専門学校が残っていた。もちろんこの期間は短く、すぐ新制高校が生まれ、今の分かりやすい形に移行したものの、進学時期を迎えていた旧制の中学生を、大いに悩ませたに違いない。


 関学では、何週か前にお話しした通り、橘高紀雄マネジャーの尽力のおかげで、池田、豊中、奈良3中学のタッチフットボール出身の有望選手が、続々と新制高校3年、または旧制の高商1年などへ進学し、戦力は飛躍的に向上した。
 その初年度、1948年(昭和23年)は春から見事な勝ち星が積み重なった。まずは甲南大の前身の甲南高校を、4月18日に7―0で退けたのを皮切りに、5月2日には関西の各校OBが集まった、クラブチームの関西OBに63―0と大勝。次いで難敵の関大を12―6と破って自信をつけた。


 5月9日、場所は和歌山。米田満さんは「関学フットボール20年」という散文詩に


   その一年 忘れもせぬ春 太陽の欠ける日 和歌山の地で


と、うたい上げる。日食があった日だそうで、これはまさしく記憶に残っただろう。さらにこの春、5月22日に同大をも13―7と退けて、4戦全勝と秋に希望をつないでいた。


 この年、リーグ戦には京大が初めて参加した。西宮球技場で11月に開幕した公式戦は、初戦がその京大戦、11月13日に25―0と完封し、次いで27日に同大を19―9で破った。
 関大との決戦は12月4日。2戦2勝同士だった。結果は6―6の引き分け。再戦は12月13日に行わ れ、古豪関大が一日の長を見せて25―6で逆転勝ちし、2年連続の甲子園ボウル出場を果たした。


 関学は先取点したものの、関大の大黒柱、QBの羽間平安さんに走られて逆転の2TDを奪われ、さらにインターセプトから90ヤードをリターンされてとどめを刺された。


 米田さんは散文詩でこう続ける。


   そして本舞台の秋の決勝に
   宿敵関大に 勝って泣き 負けては泣いた明け暮れは
   この年の若さと甘さ 甘さと若さ―
と、結論づけ、


   しかし 真実の眼は そうして開かれていったのだ


と、チームの未来へ希望の眼を向けた。


 とにかく、善戦だったとはいえ、この秋に関学がなめた杯は苦く、直面した壁は高く、つらい、つらい敗戦だった。この「若さと甘さ」の認識が、チーム内にしっかりと根付いたことが、次の成長につながっていったのは確かである。


 この年の第3回甲子園ボウルは、前回のボウルゲームの日取りにある通り、1949年1月9日に開かれた。1月2日に第2回ライスボウルを行った後での開催である。
 前年の元日開催が予想以上の混乱を招いたため、開催日を1週間ほど繰り下げていたからで、出場する慶大、関大にとっては負担の大きい日程だった。


 とりわけ関大は、12月4日と13日に関学と連戦した後、主力の多くがライス出場。そして甲子園と間隔の詰まったスケジュールに直面した。一方の慶大はリーグ戦終了が11月27日。もちろんライスには東軍の主力を出場させていたが、時間的なゆとりという点では、関大に比べればはるかにましだった。なおライスは東軍が52―0で大勝した。


 さて、甲子園ボウルは慶大が第2、第3QにそれぞれTDを挙げ、関大の反撃を第4Qの1TDに抑えて14―7で2年ぶり2度目の王座に就いた。慶大の立役者は主将を務めた藤本武さんである。
 「毎日甲子園ボウル五十年史」によると、広島県尾道の出身で戦争前に渡米し、柔道教師の父親の元で柔道に打ち込んだ。フットボールの経験はなく、日米関係の悪化で帰国。慶大予科に入った。兵役に就き、ビルマ(現ミャンマー)で戦い、復員後慶大に戻った。


 だが、柔道の禁止令に遭ってフットボール部に入った。こうした経歴のせいで、この第3回大会の時はすでに25歳。前年10月に結婚しておられた。妻帯者というのだから今なら珍しがられて、人気者となっただろう。


 藤本さんはゲームではFBを務め、終始ランプレーの中心となった。最初のTDは第2Q7分、藤本さんからLH田中早苗さんへのリバースが決まってTD。藤本さんの突進でTFPを追加した。慶大は第3Q14分、藤本さんからLE太田裕之さんへの25ヤードのパスで加点した。
 大型ラインの慶大は攻守に関大を上回り、善戦関大を第4QのFB大西博史さんの左オフタックル一つに抑えて逃げ切った。


 ラインのサイズの違いは、確かにこの「東西大学一位決定戦」と銘打った第3回大会のプログラムを見ると一目瞭然である。藤本さんはパントもうまく、終盤の地域挽回に貢献したと、伝えられている。


 当時は体重は貫目でのでの表記が普通だった。1貫目は3・75キログラム。先発メンバーを比べてみると、慶大は17・68貫、関大は16・4貫。つまり1・28貫、換算して約4・8キログラムの違いがある。
 ライン7人を比較すると慶大の平均が17・85貫、関大が16・35貫。その差1貫500、換算して5・625キログラムの開きがある。当時の体格からすると、慶大は明らかに大型ラインと評価されるだけのことはある数字だった。


 ちなみに筆者は選手当時16貫、60キログラムで、ラインとしては少し小さいものの、実際の試合では小柄で困ったというような体験は一度もなかった。18貫前後の人は結構いたが、主にポジションはタックルで、ライン中央部は大体16貫から17貫台というのが普通だった。
 慶大の藤本さんは大柄で20貫、70キログラムあった。関大の羽間さんは15・5貫、58キログラム余りだった。


 この第3回大会は前座で第1回のタッチフットボールの東西高校一位決定戦を行っている。東は麻布高校で西は池田高校が出場、池田高が27―6で王座に就いた。
 前に取り上げた池田高の鈴木博久さんが、FBとしてプログラムに載っているのを見ると、そのまま池田高に学んだのち、関学へ進んだという経歴が見て取れる。
 もっとも同期の古川さんの話では、鈴木さんの成績は全校で1、2を争ったというから、新制高校3年を池田で過ごしたのにも理由があったことになる。


 このほか翌年度に関学へ進み、ラインのかなめとなるRTの尾田升(おだみのる)さんの名もある。この日の大学、高校を通じてもっとも大きな(重い?)選手で、体重が22貫(82・5キログラム)あった。


 私たちにとって、いずれも懐かしい方々であるのは間違いない。この懐かしさにかまけて、懐旧談を続けているが、考えてみると今のうちではないか、という気持ちが芽生えてきた。


 古いフットボールの世界をこうして折に触れて語っておかねば、このような歴史の一コマは、そのまま失われてしまいかねない。そんな「危険性」を感じたからである。昭和一桁台の私たちが生きているうちに、ポツリポツリと語り続ける必要はあるだろうと思う。

【写真】関大と慶大が対戦した「第3回甲子園ボウル」のメンバー表=資料提供:古川明さん