今週もザラ紙の話を続けたい。前回、「ボウル」と「バウル」を説明しようと思いながら、そのままにしていたのに気が付いたからでもある。年を取るということはこういうことかと、今回もまた恥じ入っている。


 難しい話ではない。「甲子園バウル」のバウルについては、多分「昔はバウルと言っていたんだよ」という話を、年配の方から聞かされた方は、結構いらっしゃると思う。
 前々回で現地発音をそのまま字にするかどうか、というような話をしたが、それと同じことで、米国ではこう発音している、というような理由から当初は「毎日甲子園バウル」となった。


 当時は今のように、ボウルゲームだらけではなかった。ほかには1948年(昭和23年)1月に始まった「ライスボウル」だけだった。駐留米軍の方は、海軍―空軍、海兵隊―陸軍といった終盤の対抗戦で、やれ「ターキー」だ、やれ「トリイ」だといったように、ボウルゲームを次々と開くものの、当たり前のことだが、カタカナ表記などとは無縁で、参考にはならなかった。
 なお「ライスボウル」は第1回から「ボウル」で、何ら問題はなかった。甲子園の「バウル」は1950年(昭和25年)の第5回まで続き、51年(昭和26年)の第6回からは「ボウル」となった。


 以上で、今回の私の責任は半分ほど果たせた、と考えているが、これでパソコンの電源を落としたら、やはり無責任である。わざわざ「ザラ紙の話を」と書き始めたもう一つの話をしようと思っている。その前に、日取りの整理をきちんとして置きたい。


 現在、甲子園ボウルは12月半ばの日曜日(原則として第2日曜)、ライスボウルは年明けの3日に開かれている。
 海の向こうの4大ボウルが、1月1日(1日が日曜の場合は2日)にきちんと行なわれてきたように、日本の2大ボウルも日取りがこのように決まっていることは、皆さんご承知の通りである。


 対戦カードの固定化のみならず、開催場所とその日程の固定化もまた、ボウルゲームでは大事な要素である。もっともその始まりでは何かと齟齬も生じ、不都合も生じて、バタバタするのは避けられない。


 さて、わが国のアメリカンフットボールだが、戦後のあの大混乱の中から、チームを組織し、用具をかき集め、審判員を教育するなど、いろいろな面倒を乗り越えて、よくぞボウルゲーム二つを立ち上げたものだ、と常々諸先輩方の熱意、努力に感動している。
 もちろん、駐留米軍から与えられたであろうさまざまなバックアップも忘れてはならない。このようなスタートのいきさつなどに触れはじめると、それだけで終わってしまうので、このへんは今後の宿題とすることをお約束したい。


 で、フットボール復活後5、6シーズンのボウルゲームの日程は次の通りである。日付順に並べてみた。私自身にとっても記憶の整理になった。

 ▽1946年度(昭和21年度)
 第1回甲子園ボウル、1947年(昭和22年)4月13日。慶大45―0同大
 ▽1947年度(昭和22年度)
 第2回甲子園ボウル、1948年(昭和23年)1月1日。関大6―0明大
 第1回ライスボウル、1948年(昭和23年)1月17日。東軍33―12西軍
 ▽1948年度(昭和23年度)
 第2回ライスボウル、1949年(昭和24年)1月2日。東軍52―0西軍
 第3回甲子園ボウル、1949年(昭和24年)1月9日。慶大14―7関大
 ▽1949年度(昭和24年度)
 第4回甲子園ボウル、1949年(昭和24年)12月18日。関学25―7慶大
 第3回ライスボウル、1950年(昭和25年)1月4日。西軍19―13東軍
 ▽1950年度(昭和25年度)
 第5回甲子園ボウル、1950年(昭和25年)12月10日。関学20―6慶大
 第4回ライスボウル、1951年(昭和26年)1月1日。東軍27―6西軍
 ▽1951年度(昭和26年度)
 第6回甲子園ボウル、1951年(昭和26年)12月9日。立大19―14関学
 第5回ライスボウル、1952年(昭和27年)1月1日。東軍20―7西軍


 少々強引に開催した第1回の甲子園ボウルが4月だったのは例外として、あとは大体常識的な日取りに納まっている。やはり海の向こうの4大ボウル(ローズ、オレンジ、シュガー、コットン)の話が、フットボール指導者の方々の口から伝わり、それに倣っての元日開催に、かなり努力された跡が見て取れる。
 もっとも1948年の元日に開かれた第2回の甲子園ボウルはこの年だけで、あとは次第に12月の半ばへと方向づけされ、現在の形に納まっていった。


 一方の東西学生オールスター戦のライスボウルは、この一覧表から見ると、米国に倣った元日開催へ着実に向かっていることが読み取れる。現実にこのあと、甲子園は12月第1~3週に、ライスはかなり長い間元日に開かれていた。
 日取りとしては最高で、このまま定着するかと思われたが、もろもろの事情から1月15日、1月3日へと動いてしまった。試合がオールスター戦から「日本選手権」へと変わっていったのもご承知の通りである。
 ザラ紙の話に戻る。甲子園ボウルの第2回の分だ。一枚の裏表で、その表紙にはこうある。


  第2回 毎日甲子園バウル
  アメリカンフットボール東西大学一位決定戦
  タッチフットボール関西中学校選手権決勝
  

  主催 関西アメリカンフットボール連盟
  後援 毎日新聞社
  日時 昭和23年1月1日12時
  場所 甲子園球場


 お気づきだろう。このメンバー表の表紙には、対戦するチーム名がないのである。紙をひっくり返すと関西の代表校関西大学と、奈良中学と豊中中学のメンバーが印刷されてはいるものの、肝心の関東の代表校がすっぽりと抜け落ちているのだ。
 実は印刷が間に合わなかったのである。1996年に毎日新聞社から発行された甲子園ボウル50年史によると、次のような事情によるものだった。


 「1947年10月18日に開幕した関東(6校)は、大詰めの12月20日に明大と慶大が全勝で顔を合わせた。しかし結果は6―6で引き分け。慶大は12月25日に行われた早大との試合を12―13で落とし、3勝1分け1敗となって、4勝1分けの明大が優勝を遂げた」


 甲子園ボウルまで残り1週間。問題は明大のメンバーをどうやって大阪へ届けるかだった。今ならメールはあるしファクスもあるしで、さしたる不都合はどこにもないが、この当時、つまり戦後3年目の秋はそうはいかなかった。
 日本全国の通信事情などといったら、これはもうお話にならぬような状態で、主催者としては、明大のメンバーの箇所を白紙のままで印刷せざるを得なかったのである。


 余談だが、関西では京大が参加して4校リーグとなり、関大が3戦全勝で優勝。関学、同大、京大の3校が1勝2敗の3すくみとなって、2位を分け合った。京大はチャンピオン関大に12―13と食い下がり、同大を27―7と倒す活躍ぶりだった。


 試合は第2Q、関大のRH北尾郁之介さんがQB羽間平安さんへロングパスを決めて、明大ゴール前へ攻め込み、最後はラインの選手とバックスの選手が目まぐるしく入れ替わるスペシャルプレーから、FB大西博史さんがエンドゾーンへ飛び込んで決勝点を挙げた。
 明大は「1秒間の停止がない」と激しく抗議したが、認められなかった。北尾さんはのちにこのプレーについて、「ルール違反だと思う」と語っておられる。


 第2回大会ではこのほか、明大の大阪移動が注目された。明大の監督を務める花岡淳さんは日系2世として戦前明大に学び、就職先の関西では関大、同大を指導するなど、フットボールにすべてをかけた方だった。
 戦後、母校へ戻っていたが、甲子園出場が決まるとただちにGHQと交渉。年末の大阪への移動に、米軍専用車の使用を認めさせるなど、見事な才覚を見せたのである。明大のLGだった伊藤昭三さんが、「甲子園ボウル五十年史」に書いておられるので、間違いあるまい。


 今の方々には作り話としか思えないだろうが、そもそもこの当時、国鉄を使っての旅行などというのは、世間では必要最小限にとどめていたもので、前年の慶大の移動も4月とはいえ大変だったそうである。
 まして年末年始の、特に年末のそれも東京から地方への移動は、帰省ラッシュ(この当時からあった)にぶつかって、どうしようもなかっただろう。


 元日の甲子園ボウル開催がこの年限りだったのは、むしろ当然だったのである。反面、なぜライスは元日開催が可能だったのか、という疑問も生じるが、これはラッシュの向きが逆だったので、贅沢さえ言わなければ、問題はなかった。私は6回ほど出ているが、上京は比較的楽だったことを覚えている。

【写真】第2回「毎日甲子園バウル」のプログラム=資料提供:古川明さん