史料という言葉がある。例によって辞書を引く。歴史の研究または編纂に必要な文献・遺物、とある。
 要するに、と言っても少しも要するにではないのだが、読者の方々に歴史の一ページをひも解き、その事項を説明せねばならぬときに必要なもの、その裏付けとなるもののことをいう。


 主に印刷物で、例えば文書であり、日記であり、記録類などである。だいぶ年を食ってからだが、司馬遼太郎さんや、陳舜臣さんの歴史小説にどっぷりはまった時期があった。
 この当時は「日記などは第一級の史料で…」などという、お二人の随筆などの表現にぶつかると、深く深く感じ入ったもので、のちに、私自身、その私個人の「第一級の史料」に基づいて、中学から大学までのフットボール生活を取り上げた本などを上梓した。


 ちょうどこのころ、自らの商売、つまりスポーツ記者として、史料の一つにどうしても加えておかねばならぬもの、大切にしなければならぬものが存在することに気が付いた。難しいものではない。プログラムである。あるいはメンバー表と言い換えてもいい。
 競技会の、演技会の、大会の、リーグ戦の、対抗戦または対校戦に出場する選手たちの姓名、年齢、学年、出身校、身長、体重などが掲載されプログラムが、史料としてこの上なく貴重だということを、心の底からしみじみと思ったのである。


 それまでは、この程度のパンフレットなど、何ほどのものがあろうか、くらいにしか考えていなかった。目の前の試合を処理するのに、必要不可欠とまでは考えていなかった。
 ところが少し会社での位置が上がって、つまりデスクという役職へほうり上げられて、目の前の試合のことばかり考えていては全体が動かない、ということがだんだん分かってきた。前はどうした、どうだったと、昔を振り返る回数がめったやたら増えた。そのときに昔のプログラムの大切さが、骨身に染みてよく分かったのである。


 事例を一つ挙げてみよう。例えば45年近く前の関東学生連盟のプログラムだ。マニアックなファンの方々でさえも、このときどんなプログラムが、どのように作られていたかは、多分ご存じあるまい。
 関東学連の全加盟校が1部、2部の区別を全部取り払って、自分たちにとって具合のいい仲間が集まって、それぞれに結成した、五つのリーグが5冊のパンフレットになっている。


 タッチダウン誌の後藤完夫さんと、渡部博さんらが精魂込めて作り上げた日本アメリカンフットボール五十年史「限りなき前進」に、この間の事情は書かれているものの、もう一つの史料、5リーグの五冊のプログラムがあって、初めて生きてくる日本のアメリカンフットボールの歴史の一コマなのである。
 立派な本、立派な文書も大事だが、時と場合によっては、こんな紙切れがと思えるようなものが、この上なく貴重になる。史料の幅広さについては、このぐらいは強調してもいいかな、と思う。


 前々回だったように思うが、関学のOBの方の訃報から、その方の話しを少し取り上げた。このときは、最終的な確認が取れなかったので、何か所か「モゴモゴ」した表現になったのを記憶している。
 その後、関学―プリンストン大の試合見物に出かけて、元関西協会専務理事の古川明さんに、このことについて最終確認ができなかった話をした。無論、この方ならそのへんの解決策ぐらい楽々と教えて下さることが多い。今回もそんなことを教えていただけるのではないか、と少し甘ったれたことを考えていたのも事実である。


 「池田の鈴木さんのことなんですが、第1回の甲子園ボウル(の中学の試合)に出ておられたようですが…」裏付けの史料がなくて、今回は残念ながら、断定するのを見送った、というようなことを説明したら、「おう。ヒロヒサか。間違いなく出とったよ」と即座に答えが戻ってきた。
 で、気をよくして畳みかけた。簡単だった。「第1回のメンバー表、お持ちですか」「そろとるよ。コピーしたげるわ」。


 この方にものをねだると、話が早いのである。試合の5日後、中学部1回生の同窓会で再度西へ行き、夜遅く帰宅したら、分厚い郵便物が届いていた。中には第四回大会までのメンバー表のコピーがそろっていた。
 まず、前回不十分だったところをキチンと埋める。池田の、池田といっても高校野球で名を上げた徳島県の池田高校の方ではない。その昔、京都と西国を結ぶ要衝に位置した摂津の池田の名をかぶせた中学であり高校の話なのである。


 特にアメリカンフットボールでは、戦後タッチフットボールを始めた関西の三中学(旧制)の一つとして、忘れてはならない存在なのだ。その池田中が1947年(昭和22年)4月13日に開かれた第一回甲子園ボウルの前座試合として豊中中と対戦した。結果は14―0で豊中中学が勝ったが、この試合のプログラムに鈴木博久さんは間違いなく先発メンバーとして名を連ねておられた。
 背番号「8」、ポジションは右のハーフバック。今でいうRBとして出場しておられたのである。


 前回の記事で、鈴木さんを中学4年としたが、よくよく考えてみれば年度が替わった直後で、旧制中学5年でなければならない。このあたりも併せて訂正しておきたい。
 もっともメンバー表にあるだけで、出たか出ないか、プレーしたかどうかが分かるのか、と追及されたら、それはその通りである。しかし、これは証人がおられる。古川さんである。


 古川さんは実はタッチフットボールの出身ではない。フットボールに親しんだのは関学へ進学してからである。池田中学のころは柔道にいそしんでおられたという。
 この池田中学が甲子園ボウルで試合をすることになったとき、試合の2、3日前に部長を務めておられた三隅珠一先生から応援団長をやってくれと頼まれたのだそうである。


 米軍政部のピーター岡田さんの指導から生まれたタッチフットボールは、池田中ではこの三隅さんが受け継いだ。このあと三隅さんは関西でのタッチフットボールの普及、発展に尽力されている。


 というわけで、古川さんはこの記念すべき試合の一部始終をご存知で、そこから鈴木さんが間違いなくプレーしたことも十分ご承知だったわけである。
 それにこの当時、スタメンに載るほどの選手が全く出場しないなどということは、試合前によほどの大けがでもしない限り、ありえない時代でもあった、と余計なことだが付け加えておく。それとこの方は池田中で一、二を争う秀才だったという話もまた同時に伺ったので、これも付加する。


 さてプログラムの方だが、この貴重な第一回甲子園ボウルで配布された刷り物は、ざら紙二枚を重ねた8ページのB6サイズのパンフレットだった。
 「第一回」「アメリカン・フットボール大會」「毎日甲子園バウル」と3行に大会名を書き、米国のゲーム写真を中央に置き、下段に「主催日本フット・ボール聯盟 毎日新聞社」「於甲子園球場」の文字がある。


 2ページ目は「大会趣旨」。3ページ目に最も大事な対戦校、同志社大学と慶応義塾大学両校のメンバー表が載っている。同志社大は22人、慶大は19人の姓名が並ぶ。
 ポジションと背番号が付け加えられている。4ページ目は大会役員の連名。競技委員の最後に、毎日新聞の運動部で親しくしていただいた喜多久治さんの名がある。


 その向かいのページは式次第で、中学の試合は11時半開始で12時40分終了。アメリカンフットボールの解説演技の後、午後1時から同志社大―慶大戦となっている。
 6ページ目に中学2校のメンバー表がある。7ページ目はフットボールの解説。8ページ目、つまり裏表紙は攻守の配置図と得点の説明になっている。


 くどくど書いているが、このプログラムの中で最も大事なのは大学と中学のメンバー表であろう。次いで大会役員。歴史は人が作るなどと、もっともらしいことを付け加えるが、前回の拙文でははっきりしなかったことが今回、相当な部分が明瞭になったのは確かである。
 このほか付け加えれば、鈴木博久さんだけではなく、池田中ではRE、関学進学後は名タックルとして名を馳せた尾田升さん。のちに関学でRBとして大活躍する段中貞三さんが、このときはRTとして登録されていることなど、意外な事実も次々に出てくる。


 豊中中では前回も書いた第2回の奈良中戦のメンバーに出ていた、徳永義雄さんがこの池田中戦でもFBとして、今井信吉さんが同様にREとして先発メンバーに名を連ねていることなども確認できる。タッチフットボールの黎明期にどのような人がどのように活躍したのかが分かる仕組みだ。
 ね。プログラム、あるいはメンバー表は、こうして70年近い年月を経ると、間違いなく重みを増す。大事な史料でしょう。間違いないでしょう。

【写真】第1回「甲子園バウル」の大会プログラム=資料提供:古川明さん