行間を読ませるほどの達人でも何でもない人間なので、意図するところはきちんと分かりやすく書かないと、なかなか理解していただけないと痛感している。
 それによくあることだが、このようなコラムで意見を述べると、こうした米国流のもの考え方を、私が理想としているように思っておられる方が、結構多いようだ。


 現在はオフを利用して資料整理に励んでいる。やっているうちに、カレッジフットボールに絡む米国の組織のぬるさに興味を感じた。これを話題に取り上げようと思った。
 ただ、こうして2度にわたって米国のカレッジフットボールの組織を、うれしそうに書き続けている自分を見ると、決して米国流は嫌いではない、どちらかというと好きだというのが分かる。だからといって、好き嫌いだけで物事が動けばこんな楽なことはない。


 とにかく、基本的な資料をひっくり返していると、まず「個」を大事にし、組織の中心にその大切な個を据える欧米風のものの考え方が、当然のことながら、アメリカンフットボールの組織作りの中にも表れている。
 いってみれば、これがスタートだった。米国はこうして組織を作り、こうして運営している。日本とは出発点そのものが違うようだ。と、当初は両者の違いの面白さに駆られて書き始めたふしがある。


 一時期、体協記者だった。渋谷区神南にある「岸記念体育会館」という建物をご存じだろう。山手線の内回りに乗って、原宿からあの坂を渋谷の方へ下って行くと、途中の右手に四角い建物が建っているのが見える。
 今もそうだろうと思うが、屋上の塔の部分に岸体育館と書いてある。ここに日本体育協会という組織が鎮座し、併せて多くの競技団体が入っていて、日本の体育行政を動かしていることになっている。


 普段は国民体育大会の運営に心を砕いている組織だが、建物内に日本の国内オリンピック委員会(NOC)が同居していたので(今もそうだろうと思うが)、オリンピック絡みのニュースとなると、建物自体がひっくり返るほどの大騒ぎとなった。


 私は国民体育大会(国体)と高校総合体育大会(高校総体)が担当だった。問題でも起きれば別だが、平素は何も起こらぬ静かな取材対象だった。しかし体協の記者クラブには毎日、さまざまな競技団体が次から次へと発表ものを持っておいでになる。そのお相手をしているうちに、日が暮れた。


 その中にわがアメリカンフットボールもあった。他の競技団体とは違って、体協内に事務所がないので、遠いところからわざわざおいでになった。フットボールのOBとしては、こうした発表物をできる限り膨らませて字にして見るものの、他の競技団体の発表物とどれほどの違いがあるのか。どう知恵を絞ってもたかが知れていた。
 京浜地区、京阪神地区の各紙はともかく、都会から離れるにしたがって、地方紙では「アメリカン」の扱いは小さくなった。


 そもそもこの体協という代物は、所帯はでかい。スポーツ競技連盟または協会と、都道府県の体育協会を統括するということで、1911年(明治44年)7月に誕生した。だが組織としては、ズバリ文部科学省や開催都道府県とともに国民体育大会を主催するためだけの存在でしかない。


 もっともそれだけならあんまりなので、存在価値を世間からもう少し認めてもらうために、「加盟団体と協力して、スポーツ精神を育て、生涯スポーツを普及・振興し、国際的な競技力の向上を目指す」という極めてご立派で、抽象的な目標を掲げている。
 そのためには「他の団体と連携、協力して選手や指導者をバックアップする」のだそうだ。ちなみにわがアメリカンフットボールも、準加盟しているので、ご安心乞う。


 そもそも、1912年にスウェーデンのストックホルムで開かれたオリンピック大会への選手派遣を糸口に生まれた体協は、「大日本體育協会」の名のもとに、日本の体育行政を一手に握ってきた。その権限は戦後も継続した。
 理由はオリンピック運動と一心同体の日本オリンピック委員会(JOC)という国内オリンピック委員会(NOC)を、体協の一委員会として組織の中に取り込んでいたからにほかならない。


 しかし、NOCが体協の一組織というのはおかしいという、国際オリンピック委員会(IOC)の厳しい指摘を受けたのは、ちょうど私が体協の建物内部をうろうろしているころだった。
 いろいろなものがいっぱい絡み合っていたため、事態は一向に進展せず、JOCが晴れて体協から独立したのは、1989年(平成元年)のことだった。山形支局へ赴任した翌年で、「え、今ごろやっと」といった感想だったのを薄っすら覚えている。


 本来、NOCというのは、IOC公認の組織で、JOCはIOCに承認された日本のNOCとして、オリンピックムーブメントを推進、組織する機構というような定義づけがされている。
 IOCから見ると、体協所属の国内オリンピック委員会というのはおかしいよと言われながらも、随分粘ったな、というのが私の感想である。


 体協という国内のスポーツ団体を束ねるこうした組織を持っているのは、日本のほかには韓国と中国がある。東南アジア方面にも、同じようにあるのかもしれないが、体協で取材中には、記事に組織名として書いていないので、よく分からないといった方が正しい。


 ただ明瞭に言えることだが、欧米諸国にはない組織だということだけははっきりしている。そもそも国民体育大会といったものがないのだから、さまざまな競技団体を一か所にまとめる必要がないのである。
 オリンピックなどになれば、これはそれぞれの国のNOCがすべてを仕切る。はっきりしていて分かりやすい。


 さて、そこで全米大学体育協会(NCAA)である。体協記者当時だが、そのころ、これを米国の体協と理解する他社の仲間が、少なからずいたのをふと思い出した。横道へそれた。こんな昔話にすぐ引きつけられるのが悪い癖だ。
 さてカレッジフットボールのいろいろな組織やリーグを書いていながら、ここでNCAAを無視するわけにはいかない。


 そもそもNCAAは、過熱する大学フットボールでのけがの多さを案じた、時の大統領セオドア・ルーズベルトが、1905年12月28日に東部の13大学を集めて、どうすれば安全にフットボールができるかを諮問し、討議させたのが組織誕生のきっかけだった。
 この集まりはやがて参加者数を増し、翌年3月31日には62の団体に達した。たかだか3カ月ほどの間である。それに加盟する側からの視点では、こういう組織体がスポーツではチーム間の連絡や調整に有効なことも分かってきた。


 大統領のお声掛かりという「上からの」働きかけでスタートした組織だが、このあとは一大学、一連盟の加盟といった「下からの」積み上げで、組織を発展させていくあたり、さすが米国と言わざるを得ない。
 アイビー諸校や、ビッグ10といったNCAA以前から活動していた地方組織が、さっさとこの全国組織へ加わったのも、NCAAの飛躍的発展へつながった。


 そして1906年9月には合衆国大学対抗競技協会(IAAUS)の名称で大学スポーツ組織が正式に発足した。1910年には現在のNCAAに改称された。
 発展は順調だった。本拠は1952年からミズーリ州カンザスシティーに置かれ、1999年にはインディアナ州インディアナポリスへ移転した。


 現在ここに加盟する大学、連盟、協会等は計1281団体に達する。多くの委員会が生まれ、全国規模の大会、競技会を運営するほか、各競技のルールの整備も大事な仕事である。とりわけ近年では各競技のクラス分けが重要な仕事となった。
 編成委員会が担当するが、特にフットボールのそれは反響が大きいだけに、慎重に事を運んだ。1978年に加盟校を3部に分け、さらに1部をAとAAに分けたときなどは、この1部Aであるための必要な条件を、4年後の1982年に改めて提示しているほどである。


 ことし1月、4校によるトーナメント方式でカレッジの王者を誕生させたが、NCAAとしてはフットボール部門での長い間の懸案事項が片付いて、さぞ肩の荷を下ろした心地がしたことだろう。
 これで翼下の各競技のチームと個人のチャンピオンがすべて、組織下で生まれることになった。ちなみに他の競技の全米大学選手権大会を並べて、NCAAの紹介を終えたい。


 フットボール部門はこれまで1部AA(FCS)、2部、3部がトーナメント方式で王者を決めていたが、今述べた通り、今年、これに1部A(FBS)が加わり、すべてが出そろった。
 フットボールと並ぶ有力競技はバスケットボールで、これは男女とも春先に、3部制の選手権大会を行なっている。男女があって3部制というのが、チーム競技の選手権大会の定番で、ほかにサッカー、バレーボール、アイスホッケー、ゴルフ、ラクロス、テニスといったところがある。

 
 屋内と屋外の2大会を持つ陸上競技や、水泳も得点制を取り入れて、対校戦を行っている。男子だけのチーム競技はフットボールのほか野球とレスリング。女子だけはフィールドホッケーにソフトボールである。
 個人のタイトル争いは屋外屋内の陸上競技、水泳をはじめ、体操、スキー、テニス、ゴルフなど。意外に数は少ない。

【写真】東京都渋谷区にある岸記念体育館