この秋の、米大学フットボールの下調べに没頭していた時のことだ。私のフットボール仲間が突然「もう秋のスケジュールが、出てますね」と、声を弾ませながら電話を掛けてきた。
 この時期、毎年のことでもあるので「あ、そう」と受け流し、一言二言、言葉を交わしてから「教えてくれてありがとう」と電話を切った。作業の続きに、取り掛かろうとした途端、頭の中を稲妻が走った。同時に胸が熱くなった。


 何も慌てる必要はないのに、そそくさとパソコンを開けた。早く見たい。一刻も早く。追い立てられるかのように、関東学生アメリカンフットボール連盟の記事を検索する。これでしょう。これでなくては。頭の中を同じ言葉が、同じ意味の言葉が、音を立てて駆け巡った。


 7月1日に発信されている。秋のリーグ戦の1部の日程表である。上下二つに分かれている。昨秋のリーグ戦の上位8校が「トップ8」と命名されて、日程表の上半分を埋めている。下位の8校は少し大げさに「ビッグ8」と名付けられて、下半分を占める。
 左の縦軸に日付、横軸に第1試合から第3試合までの試合順の項目が並ぶ。ピンクの地に対戦カードが書かれている。


 「A」もなければ「B」もない。1部上位リーグの8校が、7節28試合のスケジュールの中に、きちんと納まっていた。左がホームチーム、右がビジターだろう。
 下の方のビッグ8にも目をやる。最終日の11月30日に「東日本代表決定戦」の字句が入っているのは、一貫性を欠くなあ、と考えながら「それでも元の地点まで、よくぞ戻り着いたものよ」と、改めて感慨にふけった。


 実に44シーズンもの長い年月が経過していた。この「ターンオーバー」の読者で、まだ生まれてもいない方も多かろうと思う。その当時の、関東の試合が、秋のリーグ戦が、どのような仕組みで行なわれていたのかを、説明できる人もそう多くはない。
 とにかく、今秋からはリーグ戦を1試合1試合、積み重ねていけば、1位が決まる。優勝が決まる。一般的に大学スポーツ界では、とりわけ球技では、最もポピュラーな試合方式が、静かに息を吹き返したのである。


 1969年(昭和44年)関東学生リーグはこのいたって常識的な試合方式でリーグ戦を行なった。9月15日の敬老の日に駒沢陸上競技場での明大―東大で開幕。11月28日の駒沢陸上競技場での明大―日大の全勝対決でその幕を閉じた。
 明大は桜田良平、日大は佐曾利正良と、リーグを代表するQBが渡り合い、日大が22―12で明大を破って優勝した。
 順位は1位日大7戦全勝、2位明大6勝1敗、3位法大5勝2敗、4位慶大4勝3敗、5位立大3勝4敗、6位早大2勝5敗、7位防大1勝6敗、8位東大7戦全敗だった。


 2部は4ブロックに分かれてのリーグ戦で、各組の1位がトーナメントで優勝を争った。その結果、青学大が2部を制し、入れ替え戦で東大を破ったが、試合方式の変更で、1部入りは夢と消えた。幻の1部昇格とも言われ、新しい「リーグ戦」の最大の被害者ともいえた。


 そして1970年(昭和45年)、関東学生リーグは1、2部制をやめ、編成替えと称して、五つのブロックに分けた。
 読者の方々も、5リーグ分割の話をお聞きになったことはあるだろうが、その加盟校をどのように分けたのかは、ご存じない方が多いのではないか、と思う。本稿にお目を通される以上は、最も基本的な知識なので、その全リーグをご紹介しよう。
①東京六大学リーグ=明大、法大、慶大、立大、早大、東大=6校
②関東六大学リーグ=防大、中大、専大、東海大、東洋大、拓大=6校
③首都六大学リーグ=一橋大、明星大、国際商科大、関東学院大、上智大、和光大=6校
④さつきリーグ=青学大、明学大、成城大、獨協大、学習大、成蹊大=6校
⑤関東大学リーグ=日大、日体大、国学大、東経大、大東大、亜大、城西大、日本工大=8校


 新加入の上智、和光を併せて32校が上記のように分かれてリーグ戦を展開。新たにつくった関東選手権で、各リーグの1位がトーナメント方式で戦い、甲子園ボウルの出場校を決めた。
 11月23日の1回戦は防大が42―6で一橋大を退けた。準決勝は日大70―0明学大、明大83―0防大だった。12月6日の決勝は日大が42―0と明大に完勝して、甲子園へ進出した。しかし、5リーグ制のハンディをもろにかぶった日大は、武田建監督率いる関学に、6―34と完敗した。


 多くの方々が、ここで大いなる疑問を抱かれたと思う。なぜ突然こんな形にしたのか。なぜ1、2部制をやめて、参加校すべて同格の、5リーグ並列制にしなければならなかったのか。これは当時の関東協会の理事の方々に、包み隠さずすべてを語っていただくのがベストだと思う。


 取材していたわれわれ記者に対しては、フットボールの「将来のため」というのみで、合理的な説明が何一つないまま、理事会の決定で五つに分けました、と木で鼻をくくったような発表をしただけだったのを思い出す。
 並列を推進するグループの理事の方々が、2部校の理事の大半を「並列になれば2部ではないのだから、学校からの予算が変わってくる」と味方に引きこみ、同意を、賛成を求めたとの話が、少数派から噴出もした。


 ともかくそのような理事会で決まった、あるチームにとっては悪夢のような決定事項だったのである。どのチームが悪夢を見たのかは、多くの方がご承知だし、ここまでを少し丹念に読んでいただけたら、おのずと分かってくる話なので、次にその機会がきたときにでも、改めてお話しできるのではないかと思っている。


 5リーグに分けたとは言いながら、1971年の東京六大学リーグのメンバー表の表紙は、別リーグであるはずの関東六、首都六の各校名まで掲載している。日程表はこの3リーグとも全く同じものを掲載している。明らかに、他の2リーグとは一線を画そうと試みているあたり、姑息としか言いようがない。
 理屈の中で唯一、まともだったのがあることはあるのだが、理想にすぎ、日本のスポーツ界の現実には合わなかったので、また何かのチャンスにでも書こうかと思う。


 さて5リーグ並列状態は、実に1980年(昭和55年)まで11年続き、1981年から突然1、2部制が復活した。しかし大学の予算の魅力を声高らかに言われると、とりあえずはA、B2ブロック16校で進めざるを得なかった。
 この水で薄めたようなリーグ戦が、ようやく今年、2014年に解消した。33年が経過していた。今年はそうした重要な年として、記憶されていい。


 1960年代から日本のフットボールは積極的なさまざまな動きが出てきた。とりわけ、フットボールに関する出版物、印刷物が出始めたことをもっと取り上げねばなるまい。
 関学では米田満さんが機関誌を立ち上げ、その中でフットボール専門紙に対する期待を述べている。専門紙は今日に至るまで、生まれていないが、専門誌の方はご存じの方は多い。「TOUCHDOWN」である。


 以前「TURNOVER」でこの雑誌のオーナーを取り上げた。慶大出身で現役時代は名RB。後藤完夫さんである。この方が1964年の全日本チームの一員としてハワイへ遠征され、関学の選手たちと親交を深めたのが、専門誌の発刊に結びついた。私も第2号からお手伝いさせていただくようになった。


 今改めて、現在日本で発行されている唯一無二の専門誌、「TOUCHDOWN」の創刊の年を注目したいと思う。そう、まぎれもなく1970年である。普通の常識的なスケジュールはその前の年までだった。
 この創刊の年から、東のリーグ戦は5つに分裂した。この専門誌は東の強いチームが、一つにまとまったスケジュールを、これまで一度も目にしなかった。そのままで、44年が経ったのである。長かった。私はそう思う。


 そう。「TOUCHDOWN」は初めて、関西と同じような形で関東を取材することになる。後藤さんにとって、画期的な年ではなかろうか。

【写真】関東学生リーグが5リーグ並列時代のチラシ