アメリカンフットボールというスポーツの最大の面白味は、攻撃も守備もどう理屈に合わせてプレーを組み立てていくか、という点にある。前回、第4ダウンのギャンブルについて書いたところ、予想外に多くの反応をいただいた。心から感謝する。


 このスポーツは語れるスポーツだと思っているし、それもまた楽しみの重要な要素だと信じているので、賛否両論をあれこれ語っていただくのは、執筆の目的にかなうといえる。ただ前回、少し誤解を受けた部分もあるので今回の話に入る前に、一言添えておきたい。


 趣旨は第4ダウンギャンブルの否定ではない。プレーは理屈に合ったものを、と述べた。第4ダウンのコールも、全体の流れの中で選択され、それまでの3プレーとつながった、妥当な判断、理屈に合った決断でなければ、と申し上げたつもりである。
 フォースダウンギャンブルの話はここまで。今回は春のオープン戦に触れているうちに思い出した話である。今から10年前、2004年のことだ。主役は日本大学である。


 この年、日大の内田正人さんは監督就任2年目を迎えていた。あの篠竹幹夫さんの後任として、新体制の成り行きにフットボール界の耳目が集中していた。
 篠竹さんは日大高校から大学へ進んだ後、アメリカンフットボール部へ入り、竹本君三監督のもとで1955年の甲子園ボウルに出場、26―26で関学と引き分け、初のタイトルを獲得した。


 卒業後そのままコーチとして残り、小畑重夫監督を継いで1959年に監督就任。以後44年の間、チームを指導。強力な日大を作り上げた。この間の業績は他に類を見なかった。いちいち述べると、本題に入れなくなる。ただ、持病の糖尿を悪化させてからは、つらいシーズンの積み重ねであったのは確かである。


 2000年にBブロックを制したものの法大に0―29とシャットアウトされて甲子園への道を絶たれ、翌01年はAブロックで1勝5敗の6位。初めて屈辱の入れ替え戦出場となった。
 名門同士の入れ替え戦ということで話題を集めた立大との試合は14―0で勝ち、1部残留を決めた。02年は健闘したものの、Aブロック3勝2敗1分けの3位に終わった。大学本部から定年制を告げられて篠竹さんは身を引かれ、闘病生活に入ったが、2006年7月10日に亡くなられた。73歳だった。存命中に栄光の日は戻らなかった。


 この日大を立て直す大仕事を引き受けられたのが内田さんである。前任者の個性的なカラーにどっぷり染まったチームを、いつどのように自分の色に染め直すか、が第一の課題だった。1年目はBブロックで1勝4敗1分けの6位と低迷した。2度目の入れ替え戦で、城西大に60―14と大勝したのがせめてもの慰めだった。


 2004年は、内田さんにとって、また日大フェニックスにとって、多数の新人を迎え入れた再建第一歩の年だった。前途は決して暗くはなかった。むしろ一筋の光が差し込む明るい春だった。
 しかし、その春のオープン戦の開幕試合は、当然のことながら、新人の多くはまだ姿を見せていなかった。日時は4月11日。場所は日大下高井戸のフェニックスのフィールド。相手は前年の秋、2部に落ちた帝京大だった。


 京王線の下高井戸駅から商店街を抜けて直線の一本道。私にとっては結構昔から「通いなれた」道でもある。半世紀ほど昔、まだ現在のフィールドなどどこにもない時代、文理学部の校舎の向こうにトラック付きのグラウンドがあった。
 1956年(昭和31年)5月7日、前日に神宮競技場で明大との定期戦を終えた関学は、ここ下高井戸で立大とのオープン戦を戦い、次いで日大との2軍戦に臨んだ。ダブルヘッダーだった。このころはこうしたぎりぎりの予定で試合を組むのは、当たり前の時代でもあった。


 立大との試合の後、米田満監督に「4年生上がれ。丹生だけ残れ。主将をやれ」と命じられて日大との二軍戦に臨んだが、これは私のフットボール生活の中で最もきつい試合だった。
 日大は主将の栗原満義さんや、3年生のQB須山匡さんらは出ておられなかったが、若手選手の基本に忠実な技術に苦しめられ、6―0で辛勝したのが今となってはいい思い出として残っている。


 先発メンバーでただ一人残された3年生のタックルの岡田宏一さんも同意見で、機会に恵まれれば「しんどかったなあ」と、二人で振り返ることになっている。
 フィールドはのちに現在の場所に建設され、日本のフットボール界をリードする優秀な面々が、ここから続々と巣立っていった。


 右に松原高校を見ながら通り過ぎると、桜並木の中にフィールドの入り口がある。左は文理学部だ。卒業後、スポーツ記者になってからこのフィールドへよく見学に来た。結構勝手知ったる他校のフィールドなのだ。
 この日も日大のベンチを向かいに見る場所に陣取った。つまり帝京大の真後ろで、ここには観戦者用の小さなベンチがある。これを確保した。雨が上がり、どんよりとした天候だった。足元は少し重そうだった。
 大所帯の今の日大を想像してはいけない。全部で30人いたかどうかだった。系列校からの1年生が果たしてどのくらい参加できたか。

 攻守交代になっても、ベンチへ戻ることなくフィールドの真ん中に突っ立ったまま、味方を待つ選手が常に2、3人いた。ラインの選手だった。
 ガードの湯浅晃司さんだったろうか? 主将でDLの越田彬さんだったのか? 4年生がそうたくさんいたわけはないが、とにかく攻守出ずっぱり、フルゲームの選手が黙って重責を担う姿は、感動を呼んだ。彼らのジャージーの汚れようは、当然のことながらはなはだしい。


 試合は日大が3点を先取したものの、帝京大が次第に勢いを盛り返し、第2Qには1TD、1FGを挙げて逆転した。前半は帝京大の10―3。入れ替え戦で勝った1部の古豪を、カムバックを目指す2部の新鋭が追い詰める、という構図だった。


 後半も日大の苦しさは変わらなかった。わずかだが、パワーもスピードも劣って見えた。第4QにTDを奪われ、3―17と決定的とも思える2TDの差をつけられた。
 しかし、日大はここから必死の追い上げを見せた。伝統あるチームの意地だろう。一つ、また一つとTDを返した。ただTFPを一つ落としていた。


 1点差に迫られた帝京大も反撃する。試合の終盤、日大陣深く攻め込み、FGを決めて20―16と4点差をつけた。確かめようはないのだが、このFG、第3ダウンだったような記憶がある、と力説する人もいる。ゲームクロックがどこに設置されていたのか覚えはないが、そこまであわてることはあるまい。伝統校からの勝利を目前にして舞い上がっていたのだろうか。


 勝負はまだついていなかった。しかし、南側のエンドゾーンを背にして日大が最後の攻撃を開始したときは、もう残りは30秒を切っていたという。帝京大のゴールラインは、はるか向こうだ。
 私は席を立った。野球場との境のフェンスに沿って日大側のサイドラインへ出て、観客の後ろを通りながら、復活にはまだ時間がかかるかもしれないな、などと考えていた。


 フィールドを背にして、出口へ向かったとき、突然大歓声が沸き上がった。何が起きたのかは、このような不躾な状態で私は見ていない。「タッチダウン誌」の2004年6月号の「東西学生22チームの近況」のページで、この場面は次のように記されている。私が直接目にしていないので引用させて頂く。
 「残り8秒でQB帆足梓(4年)からTE石橋賢(4年)への逆転TDパスが決まり辛勝」


 23―20。逆転を喜ぶ関係者、後援会、ファンの中で、私は胸が熱くなった。篠竹さんは昔から、得点することに対して、決して手抜きを許さない人だった。私たち関学の同時代のOBは、この人のこうした考え方は熟知していた。全プレーに全力を要求した。ゲーム終了間際のQBのニーダウンさえも許さなかった人なのだ。
 その篠竹さんが終始このように教育し続けてきたことが、信念が今、ここにこうして芽を出した。そう思った。選手の中に残っていた「篠竹イズム」。それに感動を覚えた。


 つい先刻の私の勝手な思いは消し飛んだ。だったら大丈夫。内田さんの2年目はこれで真っ当に船出できるだろう。安心もした。
 日大はこの年、4勝2敗でBブロック3位、05年、06年は2位と順調に力を伸ばし、07年にBブロック1位。決勝で法大を38―34で倒し、甲子園ボウル返り咲きを果たした。

【写真】試合後、内田監督(中央)と握手する日大・岩井主将=2013年、甲子園