「こら、何ちゅうタマ出しとるんや! タンブーよ、あれ書け。お前が書かんでだれが書く!」「スナップのことは、先週書いたばっかりや。続けては書けん。またのことや」


 申し訳ないが、いきなりあまり品がよくない、方言丸出しの会話で始めてしまった。無論、かけがえのない大事な仲間と一緒に、「関関戦」を見物しながらのやり取りである。
 第2Qに逆転されたときは、言葉少なに観戦するばかりだった私たちは、後半少し旗色がよくなると、いつもの騒々しさに戻っていった。


 どんなシーンで発された言葉かというと、第4Qのドライブ途中のプレーで出たものである。ショットガンからのランプレーだった。右のオフタックルかエンドランか。多分エンドランだと思うが、関学のQB伊豆充浩君がスタートを切り、その第一歩へ投じられたスナップを、わが友、木谷直行さんがとがめたのである。胸元に食い込むようなボールだった。
 それにわずかに高かった。それにわずかに高かった。スナップにはそのまま全力疾走に入れる、ほどの良い「リード」が欲しかった。伊豆君はスピードに乗り損ね、関大の強いタックルを浴びた。


 センターはこのように厳しく、難しい局面に常にさらされている。木谷さんの言う通りで、間違っていない。しかし、このプレーでは、真後ろへ出していればよかったそれまでのスナップバックと違って、進行方向へのリードボールを要求されていたのである。センターとしては少し違う「技」が必要となる。


 難しいわけではないが、いうほど簡単ではない。しかも方向が右というのにもご注目いただきたい。手の構造上、左へ出すのとは違って、それなりに意識しないと、きちんとした球は出せない。それまで少し高めに球が浮いていたのと併せて考えると、ここでは「ちゃんとしたスナップを」と意識過剰になったのではあるまいか、と想像するのである。
 

 ただ、センター本人は、こうしたことを自ら言い訳にしてはいけない。と書き添えておく。
 関関戦のことは前回書いた。これだけは、と書き残していたのを書いたので、もうこの試合のことは終わりにする。


 この日、木谷さんや明大のOB土屋宗光さんとの待ち合わせ場所へ出向く前、近くのデパートへ寄ってみた。東にはない西の食べ物を欲しくなることが時々ある。ちょっとしたものを、ちょびっと土産に持ち帰ることがあって、それなりに楽しい。


 そんなデパ地下の弁当売場で、身なりをきちんと整えた一人の紳士に出会った。紙袋をいくつか下げておいでだった。関大OBの羽間(はざま)平安さんだった。ここからエキスポ・フィールドへ向かわれるのだろう。相変わらず熱心だな、と感心した。


 羽間平安さんは大阪の名門、北野中学から関大へ進まれた。のちに審判員として関西のフットボール界を指導された方だ。学年でいうと私たちより5年ほど年長で、気がついたときはもうこの方の笛で試合をしていたように思う。
 毎日新聞がまとめた甲子園ボウルの50年史によると、羽間さんは第1回の甲子園ボウルで審判補助員を務め、第2、第3回は関大のウイングフォーメーションのQBとして出場した。


 関西協会作成の名簿では、1952年3月の卒業ということになり、学年が少し合わない。しかし、当時の学制は「予科」という仕組みがあり、予科の後「本科」の大学へ進むのが普通でこのへんが、ご本人に聞かないと分からぬことが多い。


 羽間さんは俊足で知られていた。明大を迎えた1948年1月1日の第2回甲子園ボウルでは、第2Qに右HB北尾郁之介さんからのロングパスを受けて明大ゴールに迫り、FBの大西博史さんの決勝TDのおぜん立てをしている。関大はこの得点を守り切って、7-0で「日本一」となった。2009年に法大に50-38で逆転勝ちしたのは、この第2回大会以来の栄冠だった。


 48年秋、関大は関学と6-6で引き分け、甲子園出場をかけた再戦が行われた。ここで羽間さんが大活躍。関学に先行されたが、羽間さんは2TDを挙げて逆転。さらにパスインタセプトから50ヤードを独走して加点するなど花形選手の実力を余すところなく発揮。
 25-6で快勝する原動力となった。しかし、1949年1月9日に行われた第3回大会では慶大の重量ラインに後れを取り、7-14で連覇を阻まれた。羽間さんを軸とした関大のバックスに対する評価は高かったが、あと一歩及ばなかった。


 このころは審判員の数が極めて少なく、関西協会の理事長を務めておられた関大OBの山内正邦さんでさえも、よくフィールドに出て笛を吹いておられた。羽間さんはこの山内さんに懇願されて、卒業後は審判員の道を歩むことになり、甲子園ボウルでは第7回から第38回まで32年間、レフリーまたはアンパイアを務められた。
 つまり、日大―関学の時代から、京大の登場、初優勝の時代までを手の届く場所でご覧になっていらっしゃったわけだ。


 山内さんも羽間さんも、気さくな方たちで、私たちは試合の前後には気軽に声を掛けてもらい、こちらからも何かとルール上の疑問、質問をぶつけたものだった。他校のOBとはいえ、親しくしていただいたのは忘れられない。
 なお、2000年10月、羽間さんは第16期の関大の理事長に就任。04年9月末まで一期4年を務められた。
 大学経営の偉い方だったのを、このときはじめて知った。フィールドを人工芝にしたのが当時話題になったが、母校のチーム強化のためにそっと手を添えられた程度だったと、聞いている。


 デパ地下であわただしく挨拶した。「胃がないのでね。今から向こう(エキスポ)へ
行ってすぐこれ食べて、試合前にまた食べて、終わったらすぐこれ食べるんですよ」と、この日の食事計画まで教えてくださった。「じゃあ、向こうでまた」とは言ったが、
 スタンドが混んでいて、しかも羽間さんは関大サイド。この日はこれきりになった。三度も手術をされたそうだが、そんな大病をされたとは思えぬほどで、また秋にはお目にかかりたいと思う。


 とにかくおしゃれで好男子。若い時はさぞかしと思うが、無論そんな話は一切なさらない。関東方面へもよく来られるが、無論母校のゲームがお目当てだ。しかし、いつもおひとり。みんなでがやがややるのは、ご趣味ではないのかもしれない。
 昔話ついでに、古い人たちがどうお出かけになっているのか、知りたくなった。私たちより年長の方、もしくは同い年の方で、自校、他校を問わずそうしょっちゅうフィールドに足を運ばれる人はそう多くはない。
 関大では羽間さんがおそらく、フィールドに姿を見せる方の中でも最年長だろうと思う。私と同学年の名RB井上透さんも近年はとんとお目にかからなくなった。


  関学では米寿にあと数歩のQB米田満さんがよくお見えになるが、それでも最近は試合厳選で、私のように機会があれば何でもというわけにはいかなくなったようだ。ただ大試合となると、同期のOG花谷雄弘さんと一緒にお出かけになる。協会専務理事を長らく務められた昔のOG古川明さんは、今も本部席の一角で元気に「お仕事」に励んでおられる。これには頭が下がる。
 その下の学年ではご存じ名QB武田建さん。リーグ戦の優勝が決まる試合とか、甲子園ボウルとかは、元気な姿と声が聞ける。


 ついこの間まで元気だった米田さんの弟でOTの米田豊さんは、このところ欠席がちだ。こう見てくると私の学年は結構元気だったのが、一人欠け、二人欠けしてもう半数を割り込んだ。
 日大でも同年で主将だった栗原満義さんはとんとお目にかからなくなった。その1年下、日本最初のアンバランスTのQBだった須山匡さんも電話でお声を聞くだけになった。


 他校の方はお名前とお顔が一致しないことが多いので、昭和一けた生まれでフィールドに通い続ける元気な方は、大いに名乗りを上げていただきたいものである。

【写真】関西大の勝利を喜ぶ羽間平安さん=2009年、甲子園球場