続き物にしてしまったので、お次は「FIGHT ON」のエンターテインメントのページ「10大ニュースの第7位」に移るのが順序だろう。
 しかし、その前にくどいようだが、タッチフットボールのこと、旧制中学時代からつながる高校のことなどの古い話に、もう一度触れておきたいと思う。


 まずは関西でのタッチフットボール発足の話から始めたい。無論前回もそのスタートについて、多少は語ることができたが、その間の事情をもう少しきちんと述べておく必要があるのではないかと思ったからだ。


 関西高校アメリカンフットボール連盟が、タッチからアメリカンへ切り替えた40周年を記念して、2010年(平成22年)6月に発行した「40年史」がその間の事情に詳しい。また池田高校と豊中高校とにある記念碑と記念プレートは、この手の物としては出色の「歴史的建造物」といえる。
 池田高校にはフットボールの楕円球を載せた碑が建ち、銘盤には「中等学校タッチフットボール、高等学校アメリカンフットボール、発祥の地」の文字がある。


 豊中高校には、同校のチーム創立50周年に際して、米軍軍政部におられたピーター岡田さんからの言葉が刻まれた銘盤がある。原文は英語で、以下のような和訳が付く。


 ▽豊中高校に贈る
 「不幸な戦争が終わり、それに続く数々の混乱の中で、私は高校生達に生きる活力を与えるため、1946年10月1日、この豊中に“タッチフットボール”の種を蒔いた。これが日本の高校アメリカンフットボールの発祥となった」
                            ピーターK・オカダ
                            1996年7月21日


 こう書くと、いかにも豊中が発祥の地と見えるが、時間の経過を追うと池田がわずかに先なのである。
 「40年史」によると、岡田大尉が同校に指導に訪れたのは46年9月。豊中は銘文通り10月だった。一方、現在はチームがないので、うっかりすると忘れられかねないが、9月に米軍軍政の一環として、奈良中学へ指導が入った。
 日系二世のオダノ中尉が監督を務めたそうである。多少の時間的な前後はあるが、私はこの3校を日本で高校フットボールを始めたチームとして記憶しておきたいと思う。


 話は飛ぶが、前回の「TURNOVER」のあと「この池田って高校野球の池田とは違うんですよね」という質問をいただいた。もちろん別々の高校である。
 ずっと昔、「タッチダウン誌」に物を書いていたときに受けた質問と、ほとんど同じだった。人の認識なんてそう簡単には改められないものだとしみじみ思う。
 野球とフットボールとの認知度の差、と言ってしまえばそれまでだろう。しかし、フットボールファンならば、高校フットボール発祥のチームの一つとして、大阪府立池田高校と、高校野球の名門、徳島の池田高校とははっきりと区別していただきたいものだ。


 次に、本格的なフットボールにチーム創設時から取り組んだ山口高校について述べておきたい。このチーム、多分、相当マニアックな高校フットボールのファンの方でない限り「それ何?」といわれるのではないかと思う。


 フットボールの活動期間は、始まりが49年(昭和24年)で、終了が53年(昭和28年)だったそうだ。わずか5シーズンというのが「40年史」での紹介だが、私の感じではその前後1年ずつぐらいは、プレーしていたような気がする。
 とにかく強いチームだった。タッチではなく、本格的に防具をつけたフットボールだったのだから驚く。


 創設者は松山一弥さんという。忘れてはならない名だと思う。1941年(昭和16年)~43年(18年)の3年間、日大のフットボール部に在籍。卒業後山口高校へ赴任し、戦後その強力なチームを立ち上げた。
 関西協会は後年、広島の崇徳高校の梶泰夫さん(早大出)とともに、松山さんを「中国地方のフットボール振興の功労者」として表彰した。


 山口高校が使っていたフォーメーションは「T」だった。シングルウイングの時代だけに、珍しい存在だった。大学では早稲田が使い、立教も使っていた。
 50年5月7日、関学はこの早稲田と戦い、6―54とコテンパンにやられている。
 関学の高校の方も5月28日にこの山口高校と花園ラグビー場で対戦し0―40で完敗した。当たりの強さ、スピードなど、どれをとっても山口高校が上だったことを、負けたチームの一人として、はっきりと記憶している。


 話が前後したが、私は松山さんが協会の表彰を受けた後、山口の宇部で開かれた祝賀会に出席した。そしてこれ幸いと幾つもの質問をぶつけた。
 松山さんはどれも丁寧にお答えになった。しかし会が会である。主役を独占するわけにはいかない。またの機会にということになったが、その後ほどなくして亡くなられ、疑問がそのまま残ってしまった。誠に残念である。


 よく覚えているのは「T」の採用で、松山さんがコンタクトしていた小倉の米軍提供のプレーブックによるものだという。しかも中味はそっくり、南加大のものだったそうだ。
 日本で最初の本格的フットボールチームとしてスタートしながら、山口高校には相手がいなかった。そのため同校の公式第1戦は49年12月16日、米軍子弟が学ぶ成増ハイスクールだった。広島の総合グラウンドに西下してきた成増を迎えた。スコアは成増25―0山口、だった。


 山口高校は隣県広島の崇徳高校とも親交を重ねていたようである。しかし、時代を考えると、登場の時期はいささか早すぎた。もしタッチフットボールで戦っていれば、50年ごろの池田高校ならば、いい勝負をしたような気がする。
 だが本格的なフットボールで、つまりタックルでとなると、やはり山口高校に軍配が上がりそうである。その意味では、日本の高校チームとして、このころの山口は最強だったのではあるまいか。


 50年(昭和25年)夏、高校1年生だった私たちは、関学の大学チームの山口合宿に参加した。細かいことは分からなかったが、大学の新人チームと互角に渡り合う山口高校には舌を巻いた。
 その前年の49年夏には、同地へ同志社大を迎え入れており、関西のレベルアップに多大の貢献をしたチームだったことは間違いない。

【写真】チーム創立50周年に際して建てられた豊中高の銘盤