昨年度の日本協会傘下の各連盟の統計によると、高校チームは113を数える。1984年(昭和59年)9月に発行された「日本アメリカンフットボール50年史」では、高校チーム100とあるから、この30年間の増加は13校ということになる。
 この13という数字を多いと見るか、少ないと見るか。議論の分かれるところと思うが、そもそものスタートを少しばかり知る者としては、逆に113を見て「ここまで来たのか」と、感慨にふけってしまう。


 1961年(昭和36年)の「Fight On」は、そのカラーページの「60年代10大ニュース」の第6位に「高校、タックルに転換」を据えた。つまりそれまでのタッチフットボールから、本格的なアメリカンフットボールへの切り替えをうたい上げたのだ。
 1946年(昭和21年)秋、米軍軍政部のピーター岡田さんが、大阪府立池田中学、同豊中中学を訪れて、タッチフットボールの普及を働きかけたのが、関西での高校フットボールの始まりだった。


 このとき同時に奈良県でも奈良中学と奈良商業に、同じような働きかけがあったと、関西協会専務理事を務めた古川明さんが、日本フットボール50年史で述べておられる。なお、このとき池田中の先生で、普及を図る米軍との窓口を務めたのが三隅珠一さんで、三隅さんはのちに初代の日本タッチフットボール連盟理事長の任に当たった。


 いずれも高校のフットボールの発展を語る上では欠かせない方々で、いずれ他日、稿を改めて触れておかねばならないだろう。
 また高校と言いながら、いきなり「中学」と書いて、読者の方々を揺さぶったが、これはご承知の通り、この時期がちょうど戦後の教育制度改革のはざまだったためで、ここで書く中学というのは、改めて言うまでもないのだが、五年制の旧制中学のことである。


 この旧制中学は47年まで存在し、48年から現在の高校へと移行した。新しい中学は47年に発足したので、この1年間は学年こそ違え、新、旧が混在していた。
 そのまた上の、つまり中学5年を終えた人たちは、この年、大学予科、旧制高等学校、旧制専門学校と「多彩」な上級教育機関へ散っていった。
 これらのもろもろが、新制大学一本に統一されるのはまた次の年度であった。このへんを詳しく書くと(実は不勉強で詳しくなんかとても書けない)大論文になってしまうので、ここまでにしておく。


 なお旧制中学のタッチフットボールは47年4月13日、第1回甲子園ボウルの前座試合として、関西中学大会決勝が行われ、豊中中が14―0で池田中を下し、初代チャンピオンとなった。
 翌年度は48年1月1日の第2回甲子園ボウルで奈良中が6―0で豊中中を破った。東では新制高校に移った48年(昭和23年)に麻布、慶応、九段、都立六高、同十高、同農高の6チームによる大会が開かれ、麻布が優勝した。


 西でもチームの増加は著しく、滋賀県では奥川直助さんのリードで、愛知(えち)彦根東、八幡商。大阪では浪速。京都では日吉が丘。兵庫では関学、兵庫などが相次いで名乗りを挙げた。
 結局この年の西は池田が制した。池田は甲子園の東西高校王座決定戦では27―6で麻布に快勝した。


 東西がこうして出そろった後、東西王座戦では49年に慶応が6―0と池田を退けて、初の東からの王者となった。翌50年は池田が慶応に15―6と雪辱した。
 51年からは一転、関学の独壇場となり、この年の東西王座戦で慶応を29―0で破るなど破竹の進撃を開始。以前にも書いたが、62年に京大出身の藤村重美さん率いる市立西宮に0―12で敗れるまで、11年間無敗の204連勝を記録した。
 「Fight On」に出た話は、時期的に言って、200連勝寸前のころである。


 53年春、大学へ進んだ私たちは、「日本一奪回」へ向けて、激しい練習に明け暮れていた。それと並行して、高校チームのための練習台を務めた。
 タッチフットボールはいまさら説明するまでもないが、相手の進撃を食い止めるタックルの代わりに、両方の手のひらを、ボールキャリアの上半身へ同時に「タッチ」することで、タックルに替えている。
 安全のように見えたが、このほかのすべてのプレーは、本物のフットボールと全く同じだった。しかもこの当時は、今の関係者の方々には信じられないことだろうが、一切防具を着けていなかった。いや、着けないというよりも、防具そのものがなったのである。


 前回述べたが、中古品でも結構な費用がかかった。フットボールに親しませようと、学生のキャンプやボーイスカウトの活動などで行なわれていた、タッチフットボールを持ち込んだ米軍軍政部も、競技として発達するとはあまり考えていなかったに違いない。
 競技となると、防具なしではやはりきついのだが、当時の選手たちは平然とフットボールの基礎技術をフィールドに展開した。


 クロスボディ・ブロックやショルダー・ブロックを防具なしで果敢に敢行したし、そのブロックを受ける方も、毛布の切れ端を縫い合わせたヒップパッドやサイパッドで十分、としていた。
 いささか口幅ったいが、私たちは高校生のけいこ台を買って出てからしばらくのちに、皆口々に「タッチって危ないぜ」と言い出した。「丸腰」でするプレーは事実怖かった。後輩に気づかれるとまずいので、何食わぬ顔で練習したが、平素防具を着用しているのがなぜなのかが、骨身に染みた。


 こうしたことをすぐ口にするのがいいのか悪いのか。私たちは三隅先生の顔を見るたびに「もういい加減にタッチをやめて、本物(のフットボール)へ切り替えましょうよ」と、せっついたものである。
 だからといって、ようやく普及の兆しが見え始めた当時、いくらなんでもそう簡単にタッチをやめることはできない。「タッチは危ないですよ。危険ですよ。大けがしないために防具着けているんですからね」。私たちは無理を承知で、この北野中、東京高等師範出身の先生に食い下がった。


 おそらく三隅先生もタッチの限界は認識しておられたと思う。だが切り替えには、当時としては「莫大な」費用がかかる。朝鮮戦争以後の「特需景気」などをきっかけに、日本の経済事情は一気に戦後から抜け出した時代だった。
 だからといって、一般家庭にとって話は別。子どもに高価な防具を右から左へ買い与えることなど、とても無理だった。為替レートが1ドル360円の時代だが、ドルそのものを好きなだけ手に入れることは許されなかった。


 61年に「Fight On」で米田満さんが描いた夢は、このころ既に底流としてフットボール界に存在していた。実現は時間の問題だったように思う。
 西では関学、市立西宮、東は日大桜丘、慶応、早稲田などが防具をつけた練習などを行い、切り替えに備えていた。そして63年度の終盤、64年2月14日に関東高校選抜が米軍の子弟のナイルキニック高と、アメリカンフットボールの試合を行った。


 全国規模の大会がスタートするのはようやく1970年(昭和45年)。このときは同時に第17回全国タッチフットボール大会も開催されている。つまりすべてをアメリカンに切り替えるわけにはいかなかったのである。
 12月27日に駒沢第二球技場で行われたタッチの決勝では滋賀の八日市が広島の古豪校、崇徳を20―0で破った。引き続き行われたアメリカンの決勝は、関学が35―0で日大桜丘を下して初代チャンピオンとなった。タッチの大会はこの後、72年まで行われてピリオドを打ったのである。

【写真】タッチフットボールの後に同大対慶大で行われた第1回甲子園ボウル=1947年4月13日