このところ執筆の材料を、もっぱら「Fight On」という冊子から掘り起こしている。これはご承知の通り、関西学院のアメリカンフットボール部の機関誌である。
 たかだか一大学チームのパンフレットではあるが、1961年(昭和36年)の創刊以後、日本のフットボール界の一側面を半世紀にも及んで記録し続けてきたのは確かである。


 となるとそれなりに重い。特に創刊号とそれに続く数冊は、半世紀余りの昔を知るためのかけがえのない資料といえる。とりわけ、当時と今日との変化の度合いを比較検討する上で、実に貴重な材料となる。


 前にも触れたが、この122ページもある創刊号の中に、なんとカラーページがある。世間の雑誌並みのエンターテインメントのページで、創刊号はここに「60年代夢の10大ニュース」という読み物を掲載した。
 当時のフットボール界の夢をとらえたテーマなので、私はこれを膨らませて、読者の方々にご紹介しようと考えた。今回はその10大ニュースの第5位に当たるテーマである。題して「防具の国産」。


 一番からは、日米交流の組織化、大学組織の全国展開、天皇杯の下賜、専用フィールドの増加と夢が続いた。ここで「Fight On」編集者の米田満さんが、いきなり現実に立ち帰ったのは面白い。
 防具。これは言うまでもなく、アメリカンフットボールを最も特徴づけている「物」の一つにほかならない。


 今から67、8年の昔(ほら昔が出たぞ)、関西学院中学部に入学したばかりの少年たちが、その帰り道に図書館前の芝生で目にしたものが、この防具を身につけた「オッサン」たちだった。
 背中に大きなこぶを背負ったように見えるいで立ちが、少年たちの好奇心をかき立てぬわけがない。地厚のシャツの下はどうなっているのだろうと。


 それにしっかり形作られた「かぶりもの」が目につく。ごわごわした布地の膝までのズボン。その中には腰を守るものであろう、板を何枚か並べた布が巻きつけられ、ズボンの上からその端が少しのぞいている。
 太もものあたりにも何か硬そうなものが入っている。足首の上まである編み上げ靴。その底には大きいイボイが並ぶ。ボールがまたいびつだ。ラグビーのものは、国民学校時代に近所の遊び仲間が持っていて、それで遊んだ経験があるが、この球はそれよりもっと細長い。とにかく千葉の市川から出て来た少年が初めて目にした光景だった。


 芝生の一段高くなったところに腰を下ろし、同じ方向へ帰る友人たちとわいわい言いながら、この大学のオッサンたちがやっていることを結構長い間、眺めたものである。
 やがてこれが「アメリカンフットボール」というものだと知り、やがて、その中へどっぷりと浸かるようになる日がくるとは、予想もできぬことであった。
 この「異様な」格好が、選手の身を守る、ルールにも定められた「防具」であることを認識するのは、それ以降である。


 少年たちが好奇心をかき立てられた1947年(昭和22年)当時、防具を手に入れるのは至難の業であった。そもそも防具があったこと自体、防具を身につけて練習していたこと自体「当たり前」と思ってはなるまい。
 1941年(昭和16年)に全国9番目のチームとして誕生した関学は、学生監督の川井和男さんが上京、日本協会の浅野良三会長(アサノセメント社長)に会ってチーム発足を伝えるとともに、援助を求めた。


 当時としては破格の2千円という寄付を得た川井さんは、その足で防具の輸入先へ赴き、ちょうどキャンセルされたばかりの防具一式20組を購入して関学へ戻ったという。あまり使われないまま戦争となり、敵性スポーツとして活動中止を余儀なくされ、防具は大事に保管された。


 戦後、その防具について「Fight On」第4号の座談会ではこう語られている。
 米田 防具はどうなっていたんですか。
 中谷(一明。昭和18年主将。TのちにHB。昭和19年卒)解散の時、うちに六つか七つ持って帰った。あとは各自家に保管していたようだ。それを集めるのに骨を折った。3月(昭和21年)までにやっと全部で十くらいそろえたかな。
 渡辺(年夫。昭和24年主将。G。昭和25年卒)僕ら中谷さんの家へもらいに行きましたよ。3月の初めですね。
 竹内(昇。HB、FB。昭和25年卒)ワシも行った。


 貴重な防具は、関学ではこうして選手から選手へ引き継がれていった。他校も同じことだっただろう。また、壊れても新しい品物がそう簡単に手に入るわけがない。修理に修理を重ねた代物が先輩から後輩へと受け継がれていった。
 その状態は話し出すときりがない。でも状態がどんなにひどくても、防具は防具だった。「折り畳み式のヘルメット」というのがあった。革製で額の場所に前立てが付き、頭の上部には前から後ろへ3本の幅広のステッチが入っていた。


 しかし本体にこの飾りを縫い付ける糸が擦り切れてしまい、多分にカタカタした。そして糸が擦り切れたところから、ちょうど半分に折れ曲がり、試合用のバッグの中へ畳んで持ち運べるようになっていた。
 畳めるヘルメットの冗談はさておき、どの大学チームも戦後の防具の調達には間違いなく苦労している。このあたりを各校の後期高齢者ぐらいの方々が「うちはこうだった。こうして防具を確保した」という話を、この「週刊TURNOVER」へお寄せいただければ、それだけで戦後フットボール史の1ページがカバーできることになる。手作りに等しい防具が、先輩諸氏が後輩たちに残していった物の中にいくつも見られた。


 結局防具の確保は、当時日本の国内に広く展開していた駐留米軍のお古に頼るのが最も確実な方法だった。米軍のどこのキャンプでも、フットボールチームがあった。一度、大阪市の南のはずれ(杉本町だったような気がするが)まで米軍同士の試合を見に行ったが、基地全体が沸き返っているのを、感心しながら眺めていたのを思い出す。


 1951年(昭和26年)に講和会議が開かれた後は、あちこちのキャンプが次々となくなり始め、それに伴ってフットボールの防具のお古が、街の古物商に出回ることになった。
 1953年(昭和28年)に大学へ進んだ私たちは、卒業した先輩のお古を吟味するのと同時に、米軍のお古に飛びついていった。神戸の元町にあった「サトウブラザーズ」の名は涙が出るほど懐かしい。


 元町の5丁目だったか4丁目だったか。通りを大丸前から神戸駅方向へ向かい、山側つまり道の右側にあった。華やかな街並みをよそに、この古物商で出物を物色するのが楽しみだった。
 場合によっては関東からの連中を案内することもあった。だが米軍が使っていた防具は、サイズが問題だった。ヘルメットは中にうまく詰め物をすれば、最新式の縫い目がなくてツルッとした「ノンステッチ」と呼ぶ代物をかぶることができた。ショルダーパッドも脇のゴムを取り替えたりして何とか体に合わせることができた。


 しかしヒップパッドがどうしようもなかった。そこで針と糸、それも畳針のような大きな針とタコ糸が登場する。「綿入れ」の部分を切り取り、もう一度縫い縮めるのである。やがて体に接する部分がスポンジ主流の時代が来る。このとき、針と糸の時代は終わったと、しみじみ思った。


 さて防具のことで語り始めると、選手だった人たちはとどまるところを知らなくなるのが普通である。で「防具の国産」の話だが、これは今日でも実現していない。
 実態は米国からの輸入が最も合理的だから、という。特に防具に関する規則が、選手の危険防止に重点を置いたものへと年々変化していった歴史は重い。私たちが現役だったころとは、もはや比べものにならないそうだ。
 半世紀前の認識とのずれは十分感じていただけたかどうか。ただ昔の防具に関する話の方が、今よりもずっと面白く、楽しいのは確かである。

【写真】100年以上前のアメリカンフットボール草創期のユニホームと防具=米オハイオ州キャントンのアメリカンフットボール殿堂(共同)