少し偉そうだが、昔話をするということは歴史の一コマの証言をするということだ、と思っている。ここ何回かは「昔話」と断って、思い出にふけってきた。
 書いているときは、例えようもなく甘美な時間が流れ、あるいはほろ苦い、たまらなく酸っぱい時が過ぎ去る。しかし同時に、日本のアメリカンフットボールの一断面を、正確に切り取ろうと、努力を重ねているのもまた事実である。


 関西学院アメリカンフットボール部の機関誌「Fight On」は、1961年(昭和36年)に監督の米田満さんの尽力で誕生した。その創刊号は122ページからなる堂々たる雑誌だった。
 私はその「Fight On」のカラーページにある「60年代夢の10大ニュース」をネタに、文を綴ってきた。今回もそうしようと思う。


 当時は王者が日大。まれに立教が立ちはだかった。その王者たちに対して関西の「孤高、関学」は毎年チャレンジを続けていた。
 今日のように全国に大学組織ができ、社会人チームが数多く活動を展開し、高校チームが活発な部活を続けているのとは、時代が違った。その時代を踏まえて、こうあって欲しい、こうあらねばならない、かくあるべきだ、といった理想が語られた。その理想に向きあって「夢」が述べられたのが、このカラーページだった。


 「ニュース」の1位は日米の交流。続いて2位は大学の全国組織、つまり日本各地へのフットボールの普及。米田さんらは、このようなことを大まじめに考えていたといえる。そしてこの1位も2位も、何年か後に実現を見、あるいは十数年のちに成就した。


 もったいをつけずに3位以下を紹介する。3位の見出しは「天皇杯、ケネディ・トロフィーが贈られる」。4位は「専用フットボールフィールド続々と生まれる」。5位は「防具の国産」。6位は「高校、タックルへ転換」。7位は「フットボールの専門紙発刊」。8位は「自衛隊、ノンプロへの普及」。9位は「オールジャパンの選定」。10位は「関学高の180連勝に対し、米国からトロフィー」である。


 最後の項目は我田引水のご愛嬌と言えるが、この180という数字は、機関誌発行以前の35年に既に記録された分で、発刊の36年には20試合余りが行われて、200連勝を超えた。カラーページをつくったのが三十七年初めだったら、切りのいい数字が使えただろうにと、ちょっと惜しい気がする。


 実はこの連勝記録は、37年6月10日の兵庫県大会で、市立西宮高校に敗れて途切れている。スコアは0―12の完封負け。私はこの日、西宮球場での阪急ブレーブスの公式戦取材で、記者席から短い記事を送った記憶がよみがえる。


 実現していないといえば、第3位の天皇杯もケネディ・トロフィーも、全く夢のまた夢であった。そもそも天皇賞というと、思い浮かぶのは春、秋の競馬であり、大相撲の天皇賜杯である。
 また、国民体育大会の優勝都道府県への天皇杯、皇后杯だろうか。辞書をひも解いてみると、ほかに1921年(大正10年)から始まったサッカーの天皇杯が真っ先に取り上げられていたのに驚いた。ほかのどの競技に与えられているのか、または授与に際して、どのような基準があるのかは知らないが、ここへフットボールが割り込むのは、まさしく至難の技としか言いようがないだろう。


 ケネディ・トロフィーの方は無論、夢物語ではある。この前年の1960年11月に選出された、米国のケネディ大統領に対する全世界からの期待は、並ではなかったことを私は今でも覚えている。
 「夢」なら「夢」でいい、この歴史的な人気を誇った大統領の名を冠したトロフィーなんか格好いいではないか。フットボールはアイゼンハワー大統領以来大統領のスポーツとして親しまれている。こんな思いに駆られた物語だった。
 だが、この2年後の11月、史上初の太平洋横断の衛星放送と大々的に報じられたその電波に乗ったのは、「ケネディ大統領暗殺の悲劇」だったことは、みなさんよくご存知の通りである。


 4位の専用フィールドの話は、新たに専用のスタジアムが建設されるというのではなく、全国の競輪場の多くがフットボール専用スタジアムに変わる、という話が基本だった。競輪場とフットボールフィールド。これには意外なつながりがあった。


 1957年(昭和32年)1月13日のライスボウルが、初めて後楽園競輪場で行われたのである。それまではこれまで述べてきた通り、神宮競技場がライスボウルの舞台だった。
 その会場が後楽園へ移ったのは、ほかでもない。翌1958年のアジア大会のためである。つまりメーン会場になる神宮競技場が国立競技場として再スタートするための、改装工事が行われていたからにほかならない。


 コンクリートで固められた競輪の走路で囲まれた内側は、球技ができるだけの芝生が広がっていた。芝は枯れていたもののフカフカで、上々のクッションだった。走路の外側は無論、観客席のスタンドだった。
 この競輪場は後楽園球場と並んで建てられていた。つまり現在東京ドームホテルが建っている場所と、東京ドームそのもののスペースである。
 白山通りに面して野球場、続いて競輪場。競輪場のメーンスタンドの向こうが小石川後楽園。私にとって学生生活最後のライスボウルの舞台はざっとこのような配置だった。


 この競輪場は翌58年の元日もライスボウルに使われた。また62年からの3年間も東京五輪開催のために再び国立競技場が使用できず、結局合計5度のライスボウルがここで開催された。いわばフットボール界としてはこれで競輪界と深いつながりができたともいえる。


 しかし、だからといって競輪場のフットボールフィールドへの切り替えが次々と実現するわけはない。こういう話になったのは当時、東京都民の間に公営ギャンブルの廃止の声が上がり始めていたからにほかならない。もしも廃止になったら競輪場をフットボール場に、フットボールの熱烈な後援者が、こう考えたのも無理からぬところがある。
 現実に競輪場の中央の芝生は、フットボールフィールドとして、最適だった。そこでプレーを展開し、采配を振るった者としては、当然の希望である。


 東京五輪も終わって、67年には東竜太郎知事に代わって美濃部亮吉知事が登場する。同知事は公約通り、東京都単独主催の後楽園競輪と大井オートレースの公営ギャンブルの廃止を決めた。
 だがその後、後楽園球場の東京ドームへの改築で、競輪場はそのまま姿を消し、フットボールへの切り替えなど全く話題にも上がらなかった。


 むしろその後、フットボールフィールドは、東でアミノバイタル、西では王子、万博、長居のキンチョウと、小さいながらも専用の施設が姿を現しはじめた。むしろこの方が、競技の普及発展の大きな力であろう。
 「Fight On」の夢以来40年余りがたっているが、むしろこれは、1934年の組織発足以来の悲願の実現だった。なお、今回書き切れなかったフットボールスタジアムについては、来週少し語ってみたい。

【写真】後楽園競輪場(左)と後楽園球場=1976(昭和51)年3月22日、東京都文京区