1960年代、つまり昭和35、6年から44、5年にかけて、当時の関西学院の指導者やチーム周辺の人物が、どんなフットボールの未来図を描いていたかが、「Fight On」のカラーページから読み取ることができる。
 前回その夢物語のトップに上がった「日米交流」に関して、ではその夢、いったい実現したのかしなかったのか。実現したとすれば、それはいつなのか、といったことを何一つ書かないで、筆を置いたのを思い出した。


 実はこれを書くと、相当な「長編」になってしまうので、尻切れトンボのまま止めたのが本当だが、今回はまず、その夢がどんな形で実現したのかに触れておきたい。
 61年(昭和36年)の時点では「Fight On」はまずオール・アメリカの来日を予測し、次いで全日本の太平洋岸遠征を頭に描いている。
 しかし日米交流はまず1964年(昭和39年)の全日本のハワイ遠征で始まった。以前「タッチダウン」誌創業の後藤完夫さんを取り上げた際に少し触れたが、これは日本のフットボール30周年の記念行事だった。


 この全日本チームは、東西のスターを網羅し、時間をかけて選び出した、とは言い難かった。遠征が正式に決まったのが、リーグ戦後だったのだからやむをえまい。前回述べた通り。
 東で4連覇した日大から12人、関西16連覇の関学から12人。慶大、法大から各一人の総勢26人。これを日大の篠竹幹夫、関学の米田満両監督がコーチとして率いた。ほかに団長が協会理事長の小川徳治さん、総監督が竹下正晃さんだった。


 一行は12月9日に出発。11日にハワイ大と戦って0―40と完敗した。18日の同校卒業生のチーム「フォーティナイナーズ・クラブ」との対戦は28―10で勝った。こうした顛末は、先の記事で述べた通りである。
 東西大学王座決定戦の甲子園ボウルは、この遠征とライスボウルが終わったあと、1月15日に開かれ、日大が48―14で関学を下した。
 来日の方は、「夢」で予測した全米チームではなく、大学の単独チームだった。しかし時期は60年代を大きく超え、1971年(昭和46年)のユタ州立大まで待たねばならなかった。


 全米大学体育協会(NCAA)のフットボール部門が、1937年に傘下の有力校をメジャーと呼ぶようにした際に、ユタ州の有力3校はユタ大とブリガムヤング大が38年に、ユタ州立大は翌39年に「メジャー」の呼称を得ている。いわばほとんど生え抜きの1部校で、来日当時はどこにも属さない独立校だった。


 レベルは高く、当時はAPもUPI(もう一つの通信社)も、ランキングは20位までだったので、名は残っていないが、現在のように25位制だったら、この年は末尾付近に登場していただろう。なお現在はロッキー山脈から大西洋岸にかけてのマウンテン・ウエスト・リーグ(MWC)の上位校である。


 このチームを率いていたのが、ご存知チャック・ミルズ監督だった。ユタ州立大は12月の半ばに来日し19日に国立競技場で関東勢主体の全日本と、26日には甲子園球場で関西主体の全日本とそれぞれ対戦、50―6、45―6で連勝した。
 日本にとって全く歯が立たない相手だった。だが、チャックさんの選手教育が行き届いたいいチームで、フットボールに対する姿勢を示すプレーぶりに、得たものは大きかった。このあとさまざまな大学チームが来日して、日本の技術の発展に大きく貢献した。
 日米の交流については、また稿を改めて追々触れて行かねばならぬだろう。とりわけ具体的なその実力、技術などについては、現在を知る人に改めて語ってもらいたい、と思っている。


 「Fight On」に戻る。「十大ニュース」の2番目には「全国大学組織確立」とある。この61年(昭和36年)はまだまだ全国的な普及は見ていなかった。関学に中学から高校、大学へとつながるフットボール組織を作り上げ、東大にチームを立ち上げた米田満さんとしては、次に求めたいのは、フットボールの全国的な広がりだったに違いない。
 終戦の翌年、昭和21年にフットボールがまたできるようになり、東西ともに昭和17年の最後のリーグ戦を戦った大学がそのまま戻ってきた。東が立教、明治、早稲田、慶応、法政、日大の六校。西は関大、同志社、関学の三校である。


 そして翌22年、京大の加盟で関西リーグが4校になった。しかし、この「Fight On」発行の日までに、いったいいくつ大学チームが増えたのだろうか。東西合計10校体制はこのあと昭和27年まで続いた。
 28年に関西で立命館が名乗りを上げ、ようやく5校。31年は関東では戦後初の新チームが登場した。学習院大の加盟である。一方関西では甲南大がスタートして6校のリーグとなったが、新チームの名乗りはここで影を潜めた。


 関東の方はポツリポツリと手を上げるチームが続いた。32年には防衛大が参加して8校リーグ。34年には東大と日体大が参加して計10校。35年には青山学院、成城、東京経済大の3校が登場し、一気に合計13校を数えた。しかし、この後が伸びなかった。
 東西ともに遅々として進まぬ普及。米田さんが「Fight On」創刊号のカラーページに大学の全国組織を夢見たのも、こうした東に13校、西に6校で足踏みしている実情があったからにほかならない。


 それでも、この「十大ニュース」の実現は時間の問題だったような気がする。ゆっくりと成長を進めてきた組織は、昭和40年代を迎えると東では加盟校の急速な増加を見た。西でも42年に、11年ぶりの新チームとして、近畿大がリーグ戦に7校目の名乗りを上げた。


 東西の参加校増加と並行して、新しい地域組織が次々と生まれた。「Fight On」の願いは昭和50年の東海学生リーグのリーグ戦実施を皮切りに、他の地域での学生リーグの登場となる。
 誕生順に並べる。東海リーグの次は、51年に北海道。52年に関東学生の傍流として医科歯科リーグ。53年に九州。54年に北陸。55年に東北と広島。56年には広島の組織が発展的解消を遂げて中四国。20年かかって、米田さんが描いた「夢」は現実となった。

【写真】日本代表―米国ハワイ選抜 第4クオーター、逆転のタッチダウンを決める日本代表・WR水口(右)=2005年、東京ドーム