もともと不器用で、気を持たせて場を盛り上げる、といった芸当など持ち合わせていない。早速、前回申し上げた通り、「Fight On」のカラーページの「Half Time」に展開されている「60年代夢の10大ニュース」をご紹介しようと思う。


 この関西学院アメリカンフットボール部の機関誌は前回、昭和36年に創刊号が発行されたと申し上げた。よくよく考えて見れば、米田満監督はこの前年、われわれの同級生鈴木智之さんの妹さんの、勝子さん(現在は賀津子)と結婚したばかりだった。つまり米田さんにとってはフットボール生活のすべてを、下支えしてくれる基盤ができ上がった時期だった。


 関西学院の体育の講師として、合わせてアメリカンフットボールの監督として、同時にデイリースポーツの寄稿者として、幅広い人付き合いを重ねてきた米田さんが、後顧の憂いなくそれに没頭できる環境が、整いつつあった。
 その流れの中で「Fight On」発刊に力を注ぐことができた、と考えることは決して的外れではないと思う。
 前回でもちょっと触れたが、同期の西村さんらが米田「邸」へ集まって、ワイワイやりながら、生まれた「10大ニュース」である。だが、米田さんがその前書きで明らかにしている通り、二木繁さんというまとめ役がやはり必要だった。


 フットボール・マニアの八戒君と口角アワを飛ばしているうちに、妙ちくりんなニュースをでっち上げてしまった。何とかして近い将来、こんなフットボール図を描きたいものとの、その心根に免じて、妄言ひらにご容赦。
 八戒。西遊記に出てくるあの豚の怪物である。二木さんのあだ名だ。私たちの2年下で、中学部からフットボールにのめり込んでいた。ポジションはガード。私たちの学年とは親しく、同期には関学で最初の十年選手となった中島能也さんや、小宮正弘さんらがいる。しかし、大学ではマネジャーに転じ、プレーはしていない。
 余談だが、大学4年の夏、米田さんをはじめ同期の木谷直行さんや芳村昌悦さん、岡本敬一さんらとリュックを背負いテントを持って、北海道旅行をした。信じられないかもしれないが、国鉄の北海道周遊切符に学割が利いた時代で、これを利用しての旅行だった。この上級生だらけの一行に一人、2年生の二木さんが参加した。


 卒業後、スポーツ記者として日々、世間がいう体育会系のものの考え方に接してきたが、それから見ると、このケースかなり特殊だということに気がついた。荷物持ちを連れて行ったのか、というような誤解を十分されそうである。
 だが、二木さんは単なる旅仲間の一人だった。「私も連れて行ってください」「ああいいよ」となったわけで、それ以上でもなければ、それ以下でもない。それだけ私たちは慕われ、親しまれていたのか、といえば格好良すぎるが、実はこうした学年の上下に誰もこだわっていなかったというのが事実である。


 本題へ戻る。一番目の「夢」は1961年(昭和36年)当時としては無論、日米の本格的な交流の実現だった。米田さんは「一、日米交流具体化す」という見出しを立てている。
 日本のフットボールは、他のスポーツでは考えられないようなユニークな生まれ方をし、しかもその冒頭にとんでもない行事を伴っていた。発足の日取りが明瞭である。つまり1934年(昭和9年)の10月28日に東京学生アメリカンフットボール連盟が発足し、その一月後の11月29日に神宮競技場で最初の公式戦をしている。


 一月やそこらでよく試合ができたものだ、との疑問も浮かんでくるが、実は連盟設立に参集した立教、明治、早稲田にはハワイからの日系二世が多数在籍。彼らが既に身につけているフットボールが課外活動として、取り上げられたからであった。
 最初の公式戦は学生選抜が横浜カントリー・アンド・アスレチック・クラブを神宮競技場に迎え、連盟の選抜チームが26―0で勝った。
 そして年が明けて3月、いきなり本場米国の選抜チームが来日することになった。組織発足から4カ月余り。とんでもない行事というのがこれで、これほど豪華な船出はほかにあるまい。


 選抜軍の実質は南加大中心だったが、無論その力はけた違い。3月23日に明治大学と、25日に全日本と甲子園南運動場で戦ったが、71―7、73―6と一方的だった。3月31日の神宮競技場での全日本との対戦も46―0だった。
 その翌年、今度は全日本チームが編成され、米国遠征を実現させている。シーズン後 の12月、船で米国へ向かい、1月3日に南カリフォルニア高校選抜と対戦。善戦の末、6―19で敗れた。帰途ホノルルへ立ち寄り、ハワイの高校優勝校、ルーズベルト高と0-0で引き分けた。


 日米の戦前の交流はここまでだった。そして戦雲が垂れ込めた。
 戦後は東西ともに、各地で駐留米軍との交流戦が盛んだった。しかし公式の対戦はなく、1951年(昭和26年)に米軍の施設の接収解除記念と銘打って、西京極競技場で全日本学生選抜とキャンプ京都選抜との、親善試合が開かれるのを待たねばならなかった。


 「Fight On」の「夢」はこんな時期に書かれたわけで、今考えるとたったそれほどのこと、と思いたくなるが、中味は具体的で、米田さん、二木さん、西村さんらが、ああでもない、こうでもないと知恵を絞ったあとが見て取れる。
 架空の組織や日取り、監督、選手名が出てくるので、誤解を避けるために全文の紹介はやめるが、日本での試合、米国遠征などが細かい字で1ページを埋めている。


 ライスボウルの日に大観衆の前で、米国選抜の来日と全日本軍の渡米とが併せて発表されたと、米田さんも二木さんもかなりイケイケだ。米国選抜といっても太平洋岸各校の地域限定チームで、2月初めに来日。東京、関西を中心に札幌から福岡まで日本各地で、10試合をやるのだそうだ。渡米の話の方は甲子園ボウル後、選抜チームの合宿を行い、年末に渡米。1月に太平洋岸と中西部で計5試合をやるのだという。


 10大ニュースの1番目はざっとこんな感じだ。長くなりすぎるので2番目以降はまたの機会にしたい。ただ西村さんも二木さんも、天に召されてもういない。「フットボールは語れ」というのが私の持論だが、お二人は、その意味で私など遠く及ばぬ「語り部」だったなあ、としみじみ思う。

【写真】陸上競技大会などが開催されていた戦前の神宮競技場=1930(昭和5)年5月3日(日本電報通信社撮影)