物を書くときに座右に置く書がある。私の場合は共同通信社発行の「記者ハンドブック」であることが多い。もともとこの本で仕事をしてきたからで、至極当たり前のことである。「広辞苑」もあるが、何かを定義せねばならぬ時には重宝するものの、平素は大きくて重いので座右とまではいかない。


 ただ、この連載で編集長にあおられて昔話を書くようになってから、新たに登場した座右の書がある。「FIGHT ON」という。つまり関西学院アメリカンフットボールの機関誌である。OB会事務局の発行で、正式には同窓会報である。
 あまり大々的に宣伝するものではないが、少しは紹介してもいいかな、と思う。創刊は半世紀以上前。1961年である。
 奥付を見るとまず「FIGHT ON創刊号」とあって、その次に「発行日 昭和三十六年六月二十五日」。そして「編集者 米田 満」。


 A5版でページ数122。堂々たる雑誌である。目次があって、その裏に部歌「Fight On Kwansei」の楽譜と歌詞がある。
 その向かい側に「Kick off!!」という巻頭言のページが設けられて、部長の大月直治先生が「新しき躍進のために」という一文を寄せておられる。もうどこから見ても本格的だった。


 少しわずらわしいかもしれないが、中身をご紹介しよう。次がこの創刊号の心臓部に当たる、米田さんご本人の散文詩「関学フットボール二十年」が12ページにわたって続いている。詩はページ全体の上から3分の2を占め、残りの下の部分が20年間の戦績になっていた。


 題で「二十年」と銘打っている通り、そもそもこの「FIGHT ON」発行は創部20年を彩る行事の一環でもあった。そしてこの機関誌発行が、その後途切れることなく続いていることに一種の驚きを覚える。
 もう米田さんの手を離れて久しく、今ではOB会自体の作業となった。年に一度のこともあったりしたそうだが、大体春秋2回ぐらいのペースで発行されてきた。そしてOB会長が1978年卒業の竹田行彦さんになった昨年、第九十号が発刊された。


 創刊号に戻る。詩に続いて高等部、中学部の戦績がページを埋めた後、23ページから4ページのグラビアがあることに驚かされる。無論白黒で、恐らく米田さん個人所蔵の写真と思われる。
 1953年、関学が中、高、大の3部門で甲子園ボウルを制覇した時の図書館前での記念撮影をトップに据え、中学部、高等部の集合写真などで最初のページを埋めている。
 見開きでは1941年の創部当時の試合が1枚。あとは甲子園ボウル中心の「栄光」の試合。最後のページは1949年、福岡平和台球場で行われた福岡の米軍との試合での一コマと、この20年間を支えた人たちの顔写真という構成だった。


 続いて「十年一貫教育の精華」と題する院長先生以下、学長、高等部長、中学部長の先生方の談話がある。この当時は中、高、大をつないだフットボール組織など、どこにもなかった。先生方からはいたって普通の応援メッセージ、祝賀の言葉などが寄せられている。
 しかし、この関学ファミリーの企画、構成とその一応の完成が、米田さんの他に先駆けた、大きな成果だったことに触れた言葉は、残念ながらない。


 前年の成績が細かく載り、心構え、反省などOBやコーチらのお説教も続く。ユニークだったのはこうした機関誌の柱ともいうべき成績の後に、息抜きの「色ページ」があることだろう。
 世の中の雑誌同様の構成である。創刊号は「60年代夢の10大ニュース」という「夢」が語られている。昔、同級生の西村一朗さんから聞いた話では、米田さんの家へ上がり込み、何人かでしゃべっていたときに出た話だという。
 現在では、既に実現している話ばかりといえば期待をそぐが、フットボールの進歩、移り変わりの早さに驚かされる。ま、この夢の話は追々小出しにするつもりなので、ここでは触れない。


 このほか海外在住のOBに語らせたり、タッチフットボール連盟理事長の三隅珠一さんや、毎日新聞の葉室鉄夫さんの声など、中身満載の創刊号だった。
 三隅さんは東京高師出身。戦後、大阪府の池田中学(言うまでもなく旧制)に在職した。ここで米軍軍政部のピーター岡田さんの指導で始まったタッチフットボールに携わるようになり、普及に大いに貢献した。


 葉室さんは日大出身の運動部記者である。何よりも戦前のベルリン五輪の水泳平泳ぎ200メートルで金メダルを獲得した選手として、当時は誰でも知っていた。
 もちろん仕事ではオリンピックの担当だったが、この時期フットボールに関心を寄せられ、甲子園ボウルの設立などに大いに貢献された。関西ではフットボール記者として有名でもあった。穏やかな落ち着いた物腰の紳士だったことを、懐かしく思い出す。


 「FIGHT ON」には無論、現役選手名簿、OB名簿、後援会名簿も盛りだくさんで、その一つ一つにちゃんとした会則が付いているのも、米田さんの几帳面な性格を物語る。
 その上、雑誌の最後には米田さんと神戸大学の家治川豊さんと和久田賢夫さんの共同研究による「アメリカンフットボール試合におけるエネルギー代謝に関する研究」という論文まで掲載されているのだから、これはもう脱帽である。
 このときの米田さんは関学の大学のばりばりの監督だった。すべてを一人でこなしたわけで、そのエネルギーにはこれまた恐れ入るほかない。


 100ページを超える「FIGHT ON」はこの後、62年に2冊、63年に2冊、64年にも2冊と続き、各号同じような構成で編集されている。
 この後は世間並みの薄い機関誌となって現在に至っているが、その資料的価値はさすがに高い。とりわけ64年10月までの「最初の七冊」の値打ちは別格といえよう。

【写真】2008年に発行された関学大の機関誌『FIGHT ON』