私たち同期の、年に一度の集まりができるかどうかが、気になっている。なにぶんにも昭和16年(1941年)4月に国民学校1年生だった私たちは今年、いよいよ満80歳を迎えるからである。当然のことだが、幹事や世話人も同じ年代なので、同期会を開けるかどうかは年ごとに厳しくなってくる。


 関西学院アメリカンフットボール部のOB会の名簿には、私たちの学年が15人記されているが、生存者は現在8人。半分をまだ切っていないのが幸せといえよう。ともかく数が減るのはやむを得ないことで、同期の会もやれるうちはやろうと決めているものの、心細いといえば心細い。


 ボヤキはさておき、この同期会は奥方同伴が決まりである。大体こうした決まりは、強く主張する方がおられればその通りになっていくもので、これは間違いなくQBの鈴木智之さんの「おかげ」である。
 本場のフットボール通というか、米国通というか、外国通というか、こういうことには特に厳しい方で、私たちの間ではほとんど定着している。陰で「うるさいから聞いておこう。だれも損するわけじゃないし」と言っているかどうかは知らないが、影響力はでかい。


 例年、元監督の米田満さんご夫妻をお招きし、RBの大藤努さんにそつなくまとめていただいて15人ぐらいの集まりになる。ゲストとしては私たち二年生の時の主将でタックルだった米田さんの弟、米田豊さんを毎年招いている。
 だが、何と言っても異色なのは明治大学のエンドだった土屋宗光さんだろう。同学年の仲間とはいえ他校のOBがなぜ、との疑問も出てきそうだが、これにはストーリーがある。


 1956年5月6日の神宮競技場で開かれた明治大学との定期戦である。神宮競技場は現在の国立競技場の前身で、戦後、米軍に接収され、しばらくは米国のアイオワ大の名選手の名をとって、「ナイル・キニック・スタジアム」と呼ばれていた。都心で球技をするといえば、当時はここぐらいしかなかった。だからこの日は、明治との試合前には法政大と関西大、私たちの試合後には立教大と同志社大といった、東西大学の定期戦3試合が組まれていた。


 関西学院のキックオフで始まった試合は、明治が見事なリターンを見せ、ボールを一気に40ヤード線近くまで進めた。そして第1ダウンはいきなりパスだった。これを受けたのが土屋さんだった。
 ラインの左端からするするっとダウンフィールドへ出て、腕の中へすっぽりと球を収めた。土屋さんはそのまま左のラインに沿って、一気に加速した。逆を突かれた形の関西学院勢はだれも追いつけなかった。この土屋さんのトイメンがRHの大藤さんである。
 土屋さんは見事先制のTDを挙げ、大藤さんはしてやられた形となった。だが、このプレーが後年、二人を結びつける糸口となったのだから、スポーツのつながりというのは面白い。


 関西学院は明治に傾いたこの流れを引き戻すのに、前半全部を必要とした。後半は一方的な運びで26-6と勝利を収めたものの、この土屋さんのTDは、この年の関西学院の一軍が許した唯一の失点となった。「あのTDさえなければ、無失点のシーズンだったのに」と、私の仲間たちは顔を合わせるたびにこう嘆く。同期の集まりのゲストに大藤さんが土屋さんを推挙したのも、このような訳あってのことだった。


 同期会にはこのほか仲間の未亡人の出席もある。そもそも個性的な連中が多く、同期の集まりなんて、と気取っていたグループだった。ところが、現役当時副将を務め、豪快な突進力で東西に名をとどろかせたFBの芳村昌悦さんが亡くなられ、初めてだれもが「待てよ」と考え直し始めた。これが集まりのきっかけだった。
 「メンバーが増えることは全くない。あとは減る一方やからな」。未亡人の和子さんの肝いりで、岡山県日生(ひなせ)の芳村さんの別荘になだれ込んだのが同期会のスタートだった。


 大事な仲間である。しかし、それが減っていくのをとどめるすべは、無論ない。会を始めてから6人が天に召された。
 エンドは1955年の甲子園ボウルで劇的な同点TDを挙げた西村一朗さんと、本格的なタイトエンドで同時にパンターでもあった宝来保次郎さん。タックルはラグビーから転じた林彦好さん。ガードはこれも元ラグビー選手だった上田元貞さん。センターは野球部から転じてきた関本正美さん。マネジャーだった榎森康彦さん。ポツリ、ポツリと欠けていき、芳村さんの後はラインばかりではないかと、ぼやきたくなる顔ぶれが続いた。この人たちについてはまた何か書く日も来るだろう。で、生きている方の話に戻る。


 あれはいつの会合だっただろう。会が終わっての帰り際に、大藤さんの奥様の徳江さんが内緒話でもするように、少し声を潜めて「ね、タンブーさん。なんでみんな、こんなに仲いいんでしょう」と、尋ねられた。難問だった。
 確かに会合では和気藹々。笑い声が絶えず、あだ名が飛び交い、最終的には昔話に大いに花が咲く。とりわけ55年の同点引き分けの甲子園ボウルでの話は、毎年繰り返される定番である。仲が悪くてはここまで盛り上がるまい。


 つまり、西村さんが同点のTDパスを受けたあとのTFPで、清家智光さんのフィールドゴールをなぜ採用しなかったか。それに代えて、なぜこの試合の「ラッキーボーイ」だった大藤さんの左オフタックルを選んだのかが、毎回蒸し返されるのである。
 プレースキッカーの清家智光さん一人に責任を負わせるわけにはいかない。みんなで責任を分担できるスクリメージからのプレーを選んだのだ、というのがその理由である。同期会以外ではまず出ることがない話であると同時に、同期の仲間うちでは、だれもが知る一つ話となっている。


 また話がそれた。徳江さんの質問である。実は意外に思えた。みんなの仲は決して悪くはない。でも飛び切り仲がよい、というほどでもない。しかしよそ目には、いたって仲良しの集まりに見えるのだそうである。
 返事に窮してかなり無責任な返事をした。奥さんごめんなさい。「だって、みんなポジションが別ですから」と。いい加減な返事を反省していたら、そのうちに、待てよ、この返事、正解とまではゆかないにしても「当たり」じゃないかという気がしてきた。


 この同期生たちは、考えてみたら一人一人がそのポジションでの専門家であることに気がついた。自分のことで考えると手っ取り早い。ボールを投げることでいえば、当然鈴木さんだろう。ボールを持って走ることでは大藤さんだ。球を受けることではプレースキッカーの傍ら、エンドでもあった清家さんになる。
 前回も登場してもらったが、MGでは木谷さんの右に出る者はいない。当時のブロッキングの技術でいえば、この木谷さんとガードの宮石幸一さんとが素晴らしかった。
 センターの私は、だれでもできるQBへのハンドオフはともかく、パンターへのロングスナップでは、だれにも引けはとらない、との自負があった。フィールドゴールのホールダーへのスナップ、ショットガンのスナップにも自信があった。


 中学時代、乞われるままに大学生たちの練習の手伝いをしたことがあるが、私の場合はシングルウイング・フォーメーションのスナップそのものを求められた。これで鍛えられた。シングルウイングのスナップは、半歩または一歩先へのリードが常に必要だった。「よう、ナイスボール。この球や」。ボールを受ける大学生たちの賛辞は若い者には成長の糧だった。


 スナップ話ついでだが、大学進学後、パンターだった谷川福三郎さんには、自らの技量を磨く上で本当にお世話になった。要求されるパントボールは右足のすね、それも足首に近い方、という高さの球を常に求められ続けたのである。
 「ここや。タンブー、ここや」。身構える谷川さんの期待を裏切ってはならぬ。その一心だった。こうしたパントの練習に臨む緊張感は、私を大きく成長させた。そして私はスナップでは当時の関西学院の第一人者となった。


 自分のことをいっぱい書いてしまったが、それぞれが専門家としての自負、自信に満ちていることは言うまでもない。その一つ一つを認め合っている仲間であることも確かである。
 同期会でフットボールの話になったとき、これで妙な言い争いが起きるわけがないのだ。フットボールという幾つもの「専門職」を組織して戦うスポーツでは、こうした「得」がある。もうだいぶ前の話だ。大藤徳江さんご本人はもうすっかりお忘れだろう。だが、こんな大事なことを気づかせていただいたことには、今でも深く感謝している。

【写真】神宮外苑の空撮写真、右は神宮競技場、手前は絵画館、上は神宮球場=1953(昭和28)年