メールぐらいはするのだが、なにぶん昔人間なので、こまめに点検することはない。それでも不思議なもので、この「週刊TURNOVER」に関わるようになってから、機械のふたを開ける回数がずいぶん増えた。最近も何げなく開けたら、関西学院のアメリカンフットボール部OB会から、訃報が一つ届いていた。


 一年間に40人余りの会員が増えているのは頼もしいが、反面、私たちの親しかった人、私たちがよく知る人がポツリポツリと欠けて行くのは寂しい話である。今回もそうだった。先輩である。だが学年こそ違え、ともに合宿で汗を流し、練習でぶつかり合い、試合ではともに喜びを味わった、同じ時期の「仲間」なのだ。それだけに、寂しさひとしおである。


 母校の方だけではない。最近は他校でも同世代の方のこうしたお知らせがあり、やはりつらい。歳のせいだろう。昔はこんなことはなかった。仕方ないことだと、ドライに割り切るのが常だった。だが近年は違ってきた。特にスタンドでお目にかかり、言葉を交わした方などは、それなりの感慨がわいてくる。時と場合によっては、その人が絡んだ場面が鮮やかに浮かび上がるから不思議である。


 立教大学監督の阿部重一さんの時などもそうだった。1956年正月のライスボウルで、重い突進力で有名なRBの阿部さんを、LBの位置で真正面からタックルし、その太ももにしがみついたまま、仰向けに倒されたシーンが、鮮明によみがえってきたものだ。


 今回もそうだ。亡くなられた伊東敏さんと、1953年の第8回甲子園ボウルでタッグを組んで演じたプレーが、きのうのことのように思い出された。懐かしくて、スカッとした思い出が瞬時に脳裏に浮かんでくるから不思議である。


 私は新人だった。伊東さんは最上級生である。新人と最上級生といえば、スポーツの世界では絶対的な上下関係があるように、世間から思われていることが多い。しかし有難いことに、私たちはそういう型にはまった関係とは無縁の、部生活を過ごしてきた。世の中ではごく普通の、年上と目下の人間関係に終始し、それ以上でもなければそれ以下でもなかった。


 そのような上下関係とは別に、この1年生と4年生は仲が良かった。主将を務めていた太瀬重信さんは、間違いなく全日本級のタックルであった。頑健な牛を意味する「こって」というあだ名で呼ばれていたが、私たちはこれに「さん」という敬称をつけるだけで、遠慮なく呼びかけた。


 同じ学年に関西学院のフットボールの理論的指導者の、QBの武田建さんがおられる。私たちは親しみを込めて「建ちゃん」と呼んだ。フットボールの理論について、山ほど質問し、疑問を投げかける相手だった。これに対して建ちゃんは、一つずつ丁寧に答え、時にはディスカッションすることさえあった。


 「こってさん」はこういう私たちに対して、いつも「理屈っぽいやつらやなあ」とあきれ顔をし、その上で「あんたらなぁ、理屈を言えるようにしいや」といってくださった。つまり口先だけではだめ。実行を伴わなければ何の役にも立たない、という意味である。青臭い新人たちのこのような議論を、太瀬さんは真正面から受け止め、ひとまず肯定し、その上で必要なこと、怠ってはならぬこと、一言で言えば練習が大事なことを、きちんと伝えてくれたキャプテンだった。


 この当時、いや現在でも、一般的に言って、最上級生が新人に対してこのような扱いはしないであろう。だが、関西学院では当時、こうした空気があった。恐らく60年たった今でもこれは変わらないと思う。フットボールについて誰でも自由にものが言え、試合について、練習について、意見を述べることができたのである。


 元へ戻る。伊東さんは京都の出身で、高校は桃山。ポジションは左のガードだった。ほかにこの学年にはセンターの大道伸一郎さん、左のHBに谷川福三郎さん、右に中川逸良さん。マネジャーの石井佐次郎さんらが懐かしく思い出される。
 伊東さんはなぜか同級生の方から「カマオ」とあだ名され、私たちはこれに敬称を付けて呼んだ。「こってさん」はともかく、「カマオさん」にしてはそれほどおおっぴらに呼べるあだ名ではない。だが普段からご本人たちが、平然と返事をするものだから、私たち新人もそのままで通してしまった。


 当時の関西学院のラインは強力な左右のタックルが看板だった。左に太瀬さん、右が三年の小島貞夫さん。攻守にその力を発揮されたが、特に守備での強さは他校の脅威だった。
 エンドは左が3年生の福村圭司さん、右が私たちと同期の西村一朗さん。このころの他校はよく知らぬが、この年から守備でも全プレーにサインを出すようになった。簡単なものだが、効果は抜群だった。このサインを出したのが、福村さんだった。
 中央部は攻撃時にはセンターが私。伊東さんは私の左である。右にはこれまで何度もこの記事に登場させた、木谷直行さんがいた。


 当時、つまり1953年の選手交代は、攻守交替時に限って自由だった。翌年からクオーターごとの縛りがかかって、少し不自由になったが、この年はツープラトンができたわけだ。
 しかし、選手の数やレベルから見て、これを積極的に使えるチームは見当たらなかった。関西学院はその点、恵まれていた。コーチだった米田満さんが私と建ちゃんをセットにして、積極的に活用したのは確かである。


 関学の攻撃になる。建ちゃんが私を伴ってフィールドに入る。攻撃が終わる。二人は外へ出る。建ちゃんと入れ代って、私たちの同級生のQB鈴木智之さんがフィールドに入り、セーフティーの位置につく。最上級生の大柄な大道さんが、私に代わってLBを務めた。このほか木谷さんに代わって、2年生のガードの平岡敏彦さんが攻撃時に出場することがあった。


 余談になるが、鈴木さんのセーフティーは超一流だった。今でいうとストロングセーフティーになるだろう。とにかくラインのカバーが並ではなかった。
 5―3か6―2が主流のディフェンスは、ギャップを詰めるのが普通だったが、それでも時には穴が開いた。その穴の出口で待ち構えるのが鈴木さんだった。ご本人に言わせると「見えているのだから、何も難しくはない」そうで、しかもボールキャリアの両膝を両腕で抱え込み、一発で仕留めるタックルは見事というほかなかった。無論パスディフェンスが安定していたことも、付け加えて置こう。


 ま、そのようなわけで、当時の試合ではラインは攻撃のときも、守備のときも、同じ相手とそのまま渡り合うケースが多かった。序盤で後れを取ると、間違いなく優劣ができて、試合を通じてえらいことになる。
 そこで優位に立つため、秘術を尽くすことが多かった。様々な駆け引きの末、私たちの場合は(口幅ったいが)相手が先にへこむことが多かった。


 さて、甲子園ボウルである。試合は大方の予想を覆した。関西学院は攻守ともに少しずつ立教を上回った。建ちゃんのプレーコールは手堅かった。中川、谷川の両HBで代わる代わるオフタックルを突き、確実に前進した。
 時折短いパスを決めて、LBをラインに近づけぬようにした。最前列5人の立教ラインは、私たちの予想に反しておとなしかった。LBもあまり動いてはこなかった。


 その立教ラインの中央に、当時の名物選手がいた。新井英雄さんという。麻布高校出身で、メンバー表を見ると体重105キロとある。身長も結構高かった。今ではこの程度の体格は、何も珍しくはない。
 しかし75キロ、80キロで大型といわれ、タックルに起用されるのが普通というころの話だ。確かにその体格は群を抜いて大きかった。各校から一目も二目もおかれ、中央は彼一人で大丈夫とまで言われていた。ポジションはMGだった。


 もっとも新井さんは全プレーでMGを務めたわけではない。私には初めから終わりまで、ぶつかり合った記憶がないのである。どうやら折を見ての投入が多かったのではあるまいか。ただ体重60キロの男が、ショルダーブロックで押し切れる相手ではなかった。新井さんをRBのコース上から排除することなど、とうてい不可能といえた。
 ただ何度か当たり合ううちに、新井さんの癖が飲み込めてきた。ひたすら両腕を伸ばして押し立ててくるのが多いことに気付いた。肩で来るときは右肩が主だった。


 新井さんが構える位置にコースを設定して、そこから新井さんを排除しよう、などという無謀なことを考えさえしなければ、困る相手ではなかった。低く当たって、あとはひたすらまとわりつけば、なぜかそのブロッカーと一緒にもみ合ってくれるMGだった。
 ただ、こちらが押し立てているつもりなのに、その姿勢のまま、じわじわと後ろへ押されていくのは情けなかった。私のシューズのクリーツが芝生を一直線に掘り返した。だがパスの時などは全く問題なかったし、中央を突くプレーでも、手が届かぬ場所を走ってくれれば、ロスの恐れは少なかった。


 関西学院は第2クオーター、木谷さんの鮮やかなパントブロックを糸口に、中川さんの左オフタックルで先取点。後半開始直後、パスで追いつかれたものの、第3、第4クオーターにも中川さんがオフタックルで2TDを返した。つまり一人で全TDを記録し、19―7で立教を破った。


 さて、伊東さんとの共同作業である。後半のことだったように思う。プレーは左のトラップだった。多分この試合で始めてのコールだったように思う。QBも鈴木さんに代わっていたような気がする。
 この時代の関西学院のトラップは、6―2の場合は相手のガードを誘い込んで、これをプルアウトした反対側の味方のガードが、コース上から弾き飛ばす。センターは誘い込む側のガードと一緒になって、相手の反対側のガードをダブルチームで仕留める。
 5―3の場合は相手のタックルの選手を誘い込み、同様にプルアウトした味方のガードが排除する。センターがダブルチームする相手はMGである。


 ハドルでこのプレーを聞いたときである。伊東さんがなぜかそれまでとは一味違う高揚感を見せた。「タンブーよ」、私のあだ名である。言葉を継いで「絶対左肩で当たってくれよ」。ハドルから離れて、位置につくまでの短い時間に、伊東さんはこう念を押した。伊東さんがこんなことを言うのは、極めて珍しいことである。
 無論プレーブック通りの私のショルダーブロックは左肩である。立教の守備は5―3。相手は新井さんだ。伊東さんは何かをたくらんでおられる―。


 左で当たる。この場合決して楽なプレーではない。私の左側へ突っ込んでこられたら、何秒か阻止するのは簡単である。私の右へ突っ込んでこられたら、正面からのブロックは難しい。ほとんど真横になるようなブロックしかできないのではないか。
 しかも相手は日本で一番大きい選手である。下手をすれば、プルアウトする味方の選手の走路をふさぎかねない。ただ幸いなことに、この大柄な選手は俊敏ではなかった。しゃにむに突進するタイプでもなかった。


 新井さんはいつも通り、私の右肩の方へ一歩踏み出した。斜め前方からの私の左ショルダーブロックは、辛うじて間に合った。太いお腹のあたりに私の左腕が食い込んだ。このまま少し時間が経過した。
 と、その時、新井さんの巨体が急に右へ傾いたかと思うと、そのままほとんど仰向けになって、ゆっくりと甲子園の枯れ芝の上に崩れ落ちた。驚いた。こんなことが起きるとは思っても見なかった。地響きを立てて転がったように思えたが、実際はそれほどでもなかったのかもしれない。私をテコの支点にした伊東さんの思い切ったショルダーブロックのさく裂だった。これを狙っていたのか。納得だった。


 このトラップがどれだけヤードを稼いだのか、だれが、どこを、どう走ったのかも覚えていない。目の前の難敵を倒したラインの選手の満足感だけが、光り輝いていた。この二人の共同作業を、いったい誰が見ていただろうか。恐らく誰も気づいていないだろう。
 だが伊東さんの満足感は計り知れないものがあっただろう、と思う。手伝っただけの私が、60年余りたった現在でもこれだけ覚えているのだから、その主役を務めた人の満足度は言うまでもあるまい。そう、ラインの楽しみ、満足はこうした一コマ一コマに隠されていることが多いのである。

【写真】1957年当時の甲子園球場