少し古い話を書く。1970年(昭和45年)の秋のリーグ戦が始まった日だった。私は駒沢第二球技場のフィールドで、日大の篠竹幹夫監督ととりとめもない話をしていた。このとき、スタンドの手すりから身を乗り出して私たちに声を掛ける方がおられた。
 振り向いた篠竹さんは「おう、降りてこいよ」と声を掛けた。やがて、この方はニコニコしながらフィールドに姿を現し、弾む声で「できました。やっとできました」と、1冊の雑誌を差し出した。「おう、できたか」と受け取った篠竹さんは、パラパラっとページをめくり「ありがとう。大変だな」とねぎらいの言葉を掛けた。


 現在刊行されている我が国唯一のアメリカンフットボール誌「タッチダウン」第1号が出版された時の一コマである。篠竹さんに雑誌を持参したこの方が、同誌のオーナーで、現在はフラッグフットボールの代表理事も務められる後藤完夫さんだった。篠竹さんから紹介された後藤さんと私とは、この後長いお付き合いを始めることになった。すべてはこのときからで、今年で43年目になる。
 70年は関東学生連盟が大揺れに揺れた初年度である。篠竹さんの強列な個性に反感を募らせた一部の大学が音頭をとって、連盟を一、二部制から5リーグ並列に切り替え、当時最強を誇った日大を、歴史の浅い大学のグループへ追いやった。そして歴史の古い強豪の名門校が集結するという「事件」が起きたのだが、この始末を知る人は、もうだいぶ少ない。


 あまり持って回った言い方をしても、わけが分からなくなるので、具体的に名を出すが、慶大、明大あたりがこの動きに積極的だった。後藤さんはその慶大の出身だった。「えっ」と思ったが、それは私の考え過ぎで、お二人はあくまでも大人だった。日大と慶大出身者の、駒沢第二球技場での短時間の語らいは、私の印象に強く残る。
 お二人のつながりは実は6年前の1964年にさかのぼる。この年は日本にアメリカンフットボールが導入され、正式の協会が設立されてちょうど30周年に当たった。協会は「何か記念事業を」とあわただしく全日本チームを編成して、ハワイ遠征を行った。


 チームは日大と関西学院が各12人、ほかに慶大と法大から1人ずつ参加して編成された。団長は協会理事長の小川徳治さん、監督は竹下正晃さん。コーチは篠竹さんと関学の米田満さんが務めた。時期は12月。ハワイ大との第1戦は0-40の完敗。第2戦で同校OBの49ersクラブには28-10で勝ち、1勝1敗で帰国した。甲子園ボウルはこのため1月に延期されている。
 このとき慶大からHBとして選ばれたのが、後藤さんだったのだ。HBというと、当時として当然攻守を兼ね、RBでありDBでもあった。ハワイ遠征から6年後、遠征仲間の宮本曠敬さんらの関学バックス勢を引きこんで「タッチダウン」の創刊にこぎつけた。何もないところから、こうして雑誌を立ち上げた手腕と、バイタリティーには敬服するのみである。


 ページ数68、写真をふんだんに使っているのは、単にビジュアル的な効果を狙ったわけではない。実は原稿そのものが足らなかったからで、41ページから44ページまでの4ページは全くの白紙だった。そこに書かれている横3行のコメントがいい。
 「Space for you」。あなたのページです。
 ゲームスコア、デートの約束、今日の天気、隣で見ているガールフレンドの似顔etc。なんでも自由にお書きください、ということである。


 執筆者を探しておられた後藤さんは即座に、私に食いついてこられた。関西学院のOBで、しかもスポーツ記者。もう白紙のページを作らなくてもよくなる。実は私にとっても、渡りに船だった。発表の場のないままだったフットボールの知識が、後藤さんの紙の上にあふれ出たのである。
 途中何度も危機はあったが、43年間で「タッチダウン」はここまで来た。そんな思いがある。契約読者を集めるところから始まり、予想よりも早い時期に一般の書店に出るようになった。当初の季刊が、早々と隔月刊になり月刊になった。


 「タッチダウン」の話をするのが目的ではないので、このぐらいにしておく。ただ、後藤さんとの付き合いを通して私は大きな影響を受け、多くを教えていただいた。その中で雑誌創刊の目標として、こんなことを口にしておられたのを今でも鮮明に覚えている。
 「フットボールを通して、アメリカの文化を伝えていければ」
 フットボールの普及、発展を目標に定めるのなら、何の不思議もない。しかしスポーツは間違いなく文化である。話が一回り大きくなった、と感じた。フットボールの中にあるアメリカ文化とは…。


 前にも書いたが、タッチダウン誌ではアメリカの大学を受け持った。シーズンには、メジャーといわれる有力校を1試合ずつフォロー。1リーグずつ勝敗表を作った。シーズンが深まると、ボウルゲームをマークし、1週ごとに確認してきたランキングと突き合せた。好きな作業だったので全く苦にならなかったのも、前に言った通り。その作業の中からアメリカ文化の一端が、少しずつ見えてきた。というより、日米の差が見えてきた、といった方がいい。
 つまりスポーツを楽しんだり、普及したり、広めたりするときに、重要な役割を果たす組織の成り立ちが、日米では基本的に異なっていたのである。日本ではまず組織があり、その組織に所属する形で各チームがある。米国は逆である。それぞれの組織の成り立ちを歴史的に追いかけてみると、まずチームがあって、その個々のチームは必要があれば集まって組織をつくってきた。


 大ざっぱに言うと、各チームにとって一番大事なのは、一つ一つのチームとのつながりであって、そのグループではなかった。無論、つながりを堅固にするために、自分たちの組織を作り、仲間を囲い込むこともあった。念を押しておくが、あくまでも個々のチームが先で、組織が先にあったわけではない。
 昔人間の私は、パソコンがよく分からぬので、検索とか、おしゃべりとかは、めったにしない。この間、たまたまほかの記事を触っていたら、「ビッグ10とは何ぞや」という質問が目に入ってきた。
 NCAAがどんな基準でこのグループを作ったのかよく分からん、といったような趣旨で、これに対して回答者は「大学野球の東京六大学リーグのようなものだ」と、答えておられたが、質問と答えが食い違っていていささか気になった。で、今回取り上げてみたわけである。


 そう、ビッグ10はNCAAが作った連盟ではないことを、まず理解せねばならない。百年以上も前、中西部各州の有力校がそれぞれにフットボールのチームを持ち、互いに試合をし、ほかのスポーツもそれぞれがたしなむようになって、それでは組織をつくろうかとまとまったのが「ビッグ10」の始まりである。
 大学の数もぐっと少なかったころである。それぞれの州を代表するように、アイオワ大、ミシガン大、ミネソタ大、イリノイ大、インディアナ大、ウィスコンシン大、オハイオ州立大、ミシガン州立大、ほかにインディアナ州立のパーデュー大、そして唯一私立のノースウエスタン大の10大学が集まって、組織を立ち上げたものに他ならない。最古の「リーグ」で、のちにNCAAのスタートにも貢献した。


 「リーグ」としたが正式にはカンファレンス。長いし、スポーツファンになじみも少ないので、便宜的に私は「リーグ」を使う。このビッグ10は最近、拡大の方向にある。12校になったのはつい最近。間もなく14校になるが、これも時の流れだろう。
 南部ではサウスイースタン・カンファレンス、つまり私流に訳すと、南東リーグが大勢力を誇る。スタートはサザン・カンファレンスと言い、これはFCS(1部AA)として現存する。南東リーグは強力校がこのサザンから分かれて、新たな組織として発展した。今年も選手権戦のカードを占うコンピューターのランキングなども始まったが、南東リーグはアラバマ大を軸に有力校多数である。


 なお1部AAのアイビーリーグは間違いなくリーグだ。ただこの組織、正式発足は1980年台とつい最近で、これなどは組織防衛の典型例だった。
 リーグの成り立ちはこのように結構複雑である。歴史をひも解いて初めてわかってくるところも多い。ただ間違いなく言えるのは、まず個々のチームがあって、組織があとからついてくる、組織があって加盟校を集めたのではないということが、米国の考え方、ひいてはそこから派生する文化につながってくる。
 文化といえばもう一つ大きな発見があったが、これはまたにする。

【写真】ビッグ10に所属する名門ウィスコンシン大、TDランを決めるRBゴードン=9月8日、(共同=AP)