スポーツ記者といっても、会社に雇用されている以上転勤はつきものである。私も東京と関西の間を何度か行き来した。東京新聞時代には大阪支局へ野球担当として転勤し、ここで共同通信へ移った。30歳台半ばに東京へ戻ったが、このころからアメリカンフットボールに対する需要が、少し増え始めた。
 NHKでは、空輸された米国のスポーツニュース番組に声を入れ直しての放送が始まった。地方局製作のカレッジフットボールのリーグ戦を、週ごとにまとめたものである。校名や選手名などはともかく、フットボール用語の呼び方や、その解説が必要とされた。


 ほかの競技会場などでよく顔を合わせるうちに、すっかりなじみになったNHKの杉山茂さんに頼まれて、チェック役を引き受けることになった。元々のナレーションをそのまま「起こした」台本ができていた。
 用語が日本語に変わらないので、カタカナ語の長さが気になったが、これは仕方あるまい。ただほんの少し、一言二言の説明を付けようとしても、その場面の長さに制約されてしまうのが悩みだった。やがて、用語の使い方が正しいかどうかを点検するのが、主な作業となっていったのが懐かしい。


 不惑を少し過ぎたころに、2度目の大阪転勤となった。子女の教育のせいで無論、単身赴任である。このときはサンTVさんに随分お世話になった。もうニュースではなく、試合そのものが放送されるようになっていた。
 現在ではリアルタイムの中継が多くなったが、当時はそこまでではなかった。しかし、録画とはいえ、試合丸ごとの放送はそれなりに反響が大きかった。それにこの番組では、当時としてはこれ以上ない適任者が解説を務めていた。


 関西学院の監督を退いたばかりの武田建さんである。米国の事情に通じていることでも指折りで、しかも大学教授としての話術があった。相棒のアナウンサーは西沢さん。武田さんと長い付き合いから、用語は的確だった。
 単身赴任の気軽さから収録現場にはよくお邪魔した。このとき取り上げていたのが、ペンシルベニア州立大だった。お二人の掛け合いが、軽くリズミカルだったのを覚えている。
 ちょうどこのころ、武田さんが本職の学問で渡米されることになった。後任をやれと、私に白羽の矢が立った。お世話になったと言うよりも、サンTVには大いに迷惑をかけたに違いない。武田さんの帰国まで、何とかつないだが、西沢さんやプロデューサーの富岡さんに、寄りかかっての収録だった。


 10月12日の米大学の成績をチェックしていると、そのペンシルベニア州立大の結果が目に付いた。ランキング18位のミシガン大と真っ向から渡り合い、延長4回の末43―40で見事な大番狂わせを演じていたのである。
 やはり懐かしかった。こうして米国のカレッジフットボールに、もう一度触れる以上、昔親しんだチームにはそれなりの関心がわいてくる。ランク外とはいえペン州大もその一つだった。それにしても4度の延長を演じるとは…。会場はと見ると、ペン州大の本拠地、ビーバー・スタジアム。ミシガン・スタジアムと並ぶ全米有数の10万人収容の入れ物である。この日の入場者は10万7884人。沸き立ち、沸き返っていたであろうことは、想像に難くない。


 試合はペン州立大の新人のQBクリスチャン・ハッケンバーグが、期待に違わぬ逸材ぶりを発揮した。前半はハイパワーな攻めで21―10とリード。後半に入ってミ大の反撃を許し、24―34と10点差をつけられたが、ここから冷静なリードでまずFG。試合終了間際には、とても新人とは思えぬ落ち着いたプレーぶり。80ヤードを一気に詰め、このドライブの5プレー目にゴール前1ヤードから、自ら飛び込んで同点とした。残り時間は27秒だった。
 第1延長はペン州大の先攻だったが、40ヤードのFGに失敗。ミ大も40ヤードのFGの機会を得たが、ペン州大がこれをブロックした。第2延長はミ大から攻め、互いに25ヤードと36ヤードのFGを決めた。第3延長はまずペン州大が攻めたが、ファンブルをリカバーされて万事休すかと思われた。ところがミ大もブレンダン・ギブソンズの33ヤードのFGがそれて、4度目の延長へもつれ込んだ。


 先攻のミ大はギブソンズが雪辱の40ヤードのFGを決めた。またFGの交換か、と思わせたが、ペン州大はここで決勝のTDを奪って見せた。立役者は3年生のRBビル・ベルトンだった。一人で5ヤード、1ヤード、3ヤードを稼いでダウン更新まであと1ヤードとした。ぺ州大はこの正念場で33ヤードのFGを捨てた。4度連続でベルトンが球を持ち、また3ヤードをゲインした。ミ大13ヤード線でダウン更新である。
 まずハッケンバーグのパスは不成功。続いてベルトンが2ヤードを稼ぎ出した。この次のプレーでミ大に罰退が課せられた。ボールはゴール前2ヤードに置かれた。ベルトンが2ヤードを突破して勝利のTDを奪った。43―40。無論TFPは不要である。ぺ州大はこれで4勝2敗とし、ミ大は今季初黒星で成績は5勝1敗となった。就任2年目のビル・オブライエン監督にとっては、記憶に残る白星となったことだろう。


 試合経過をなぞりながら、私は前任者のジョー・パターノ監督のことを思い出していた。もちろん面識があったわけではない。ただ、この人が作り上げたペン州大は、常にタフで、ダイナミックだったなあ、というTVの画面を通しての印象が強かったからである。
 パターノ氏は1926年12月21日生まれである。日本の年号で言うとぎりぎりで大正生まれとなる。アイビーのブラウン大を卒業して、恩師のリップ・イーグル監督に勧められるまま、23歳でペン州大のアシスタントコーチになった。そして1966年、監督に推された。


 米国では、正直日本でいう監督はいない。ご存じの通り「ヘッドコーチ」がそれである。しかしヘッドコーチと書いてしまうと、字数は長いし、米国人だとカタカナがくっついてしまい読み損ねることがある。それに日本のプロ野球ではヘッドコーチといえば、監督の下にいて、チームの技術面をコントロールする重要なキーパーソンとなっている。
 だが、チームの最終責任者として同等の立場をとっている点では、監督と呼ぶ方がぴったりである。で、これからもヘッドコーチと書かないで監督と表現するので、読者諸氏はそのようにご理解いただきたい。
 余談はともかく、パターノ氏は続く46年間をペン州大に捧げ尽くした。この間の成績は「スポーツ・アルマナック」によると298勝136敗3引き分けの好成績を収めた。この中にはボウルゲームの18勝12敗1分けが入っている。全米の王座には1982年と86年の2度就いた。


 栄光に囲まれたまま、生涯を過ごすと思われたが、その終盤はいささか悲しかった。2012年1月22日に肺がんとその合併症で、85歳の生涯を閉じたが、その2か月前、11月9日に大学から監督解任を告げられていた。
 理由はコーチの一人の、男の子への暴行傷害容疑。直接の上司のパターノ氏はこのスキャンダルを知りながら、適切な手を打たなかった責任を問われたものだ。大学の関係者もこの事件では多くが処分されたそうである。パターノ氏はこの処分を何一つ言い訳もしないで受け入れた。このシーズン、成績はそれまで8勝1敗。残した言葉は「次のネブラスカ戦には頑張ろうぜ」だった。


 常勝チームを作り上げたばかりではなく、パターノ氏は選手づくりに卓越した手腕を発揮した。1973年のハイズマン賞、RBのジョン・キャパレッティをはじめ、アウトランド賞、マクスウェル賞と各部門に名だたる選手が目白押しである。オールアメリカも毎年のように輩出していたことは言うまでもない。
 このペン州大が東部独立校の雄として名を高め、中西部のノートルダム大と並び称されていたのは、みなさんもご存知だろう。ところが、私がこうしたカレッジフットボールから撤退準備を始めたころ、ペン州大は何と歴史豊かで実力に富む「ビッグ10」への加入を打ち出したのだった。


 1990年7月4日、米国の独立記念日に開かれた「ビッグ10」の会合で、ペン州大の加盟が承認された。ただし承認、即、リーグ戦とならないのはご存知の通り。既に決定しているスケジュールの整理があるためである。このミ大との成績が、ペン州大の5勝10敗と、意外に数が少ないのも、そのせいである。
 なおネブラスカ大の「ビッグ10」への加盟承認は2010年の6月。リーグの一員としての試合は始まったばかり。偶然パターノ氏の言葉に残ったことは、何かのつながりを感じさせる。メリーランド大とラトガーズ大の加入は昨年の11月に承認されているが、実際のリーグ戦は来年以降となる。

【写真】第1クオーター、ミシガン大のパスをインターセプトするペンシルベニア州立大のDBルーカス(9)=10月12日(AP=共同)