1998年7月24日。ウィスコンシン州でのパッカーズキャンプ中に日本では次女が生まれ、母が必死の国際電話で報告してきてくれました。
 寮内の交換台を大阪弁で切り抜け僕の部屋にちゃんと電話はつながりました。7月24日の日付の現地の新聞にたまたま僕が大きく載ったのでお土産にとたくさん取っておいたらルームクリーンの人に全て捨てられるという事件がありました。この詳細は2年前の7月にコラム(http://www.47news.jp/sports/turnover/column/nakamura/150157.html)で書いた通りです。


 練習の前後に集まっているファンに対して「徹底的にサインし続ける」というポリシーは頑として守り、午前の練習を終えてサインし続け、昼ご飯も食べずにそのまま午後の練習に行くというようなこともありました。
 その間だいたい4時間。スパイクも履いたままでアスファルトの駐車場で立ちっぱなしのサイン大会です。ファンの熱意に対して残念ながらプレーではなくサービスでしか応えられない身分ですので、僕の仕事は練習ではなくサインすることなのです。


 午後の練習に出てきた選手たちは僕が早めに出てサインしているだけと思ったようですが、同室の河口マーサにだけはバレます。「休憩もせんと、どんなけ好きやねん!」と突っ込まれました。


 ある夜。僕の部屋は3階、夜風が気持ちいいのでベランダから周りを眺めていると、寮の中庭で茂みに向かって「「ジョーーーー!!」っという音を鳴らして立ちションべんしている白人選手を見つけました。あの体型は恐らくブレット・ファーブです。
 上から日本語で「おい、立ちションすんな!」と叫ぶと慌てて顔を上げ僕を見つけ「エーがなエーがな!」と開き直っています。「なんでそこでやんねん。部屋の前やろ!」と突っ込むと「ちょー降りてこいよ!」と呼んでます。


 行くとおもむろに「なあ、練習めっちゃしんどいのにキャンプって給料安いやん。うっとうしいなー」と言いながら給与明細を僕に見せます。さっきもらったばっかりで僕もポケットに入れたままだったので二人で比べっこしました。


 ブレットファーブの方が僕より早い時期からキャンプに参加していたので1週間分まるまるですから総額は多かったのですが、1日あたりが僕のようなホケツと同額だったのです。
 100ドルです1日。「お前と一緒かよー、マジでー!」と本人は大騒ぎでしたが、そんなことより世界的スーパースターと給与明細の見せ合いっこをしている僕の方が大騒ぎしたいワケです。とんでもないことが次々に起こっています。本当に素晴らしい経験です。


 どうしてもオフェンス同士ですしファーブばかりに話題が行ってしまいますが、ご存知の通り当時「防衛大臣」と異名を取ったDLレジー・ホワイトもパッカーズいました。
 何かと僕を気にかけてくれ、わざわざ話しかけてくれました。練習中やロッカールーム、ミーティング室、食堂で新人だから困っていることがあれば何でも聞いておいでやー、という意味でした。優しいおっちゃんでした。おっちゃんに見えていましたがこの時彼は37歳。それほどおっちゃんでもないですね。残念ながらこの6年後に心臓発作で亡くなられたのです。


 大部分がキリスト教のアメリカ人は、試合前に必ず教会に行って礼拝します。遠征などで近くに教会がない場合は、ホテル内の宴会場などを使ってチーム用の礼拝堂に作り上げたりします。
 試合直前にロッカー内にある風呂場へ向かう黒人選手の群れがあったので「もしや!」と思いついて行ったら案の定、ホワイトが司会をする礼拝と言うかお祈りが始まったのです。


 神様に感謝し、お願いをしてアーメン。試合前ホワイトの礼拝で一緒に祈った唯一の日本人選手の称号、頂きました。

【写真】人格者としてチームメートから慕われたレジー・ホワイト(中央)と談笑する多聞さん